第14話 遺産③

翠眼亭すいがんてい』の二階は、中央の階段を挟んで、左右対称に客室が並んでいた。


 廊下の壁は淡いクリーム色。

 床は白木の寄木張り。

 随所に灯るオレンジ色の間接照明が、穏やかで温かい雰囲気を醸し出している。


 だが、その静けさが異様だった。


 朱美あけみや梅子、マミたち三人がいるはずなのに、部屋からは物音ひとつしない。

 その静寂が、妙に耳についた。


「——宇佐美さん、これ、本当に事件なの?」


 自分の部屋に入りながら、藍子が問いかけた。


 藍子の部屋は左翼の204号室。

 階段のすぐ隣に位置し、ドアには金色のプレートが取り付けられている。


「今井さん、持病の発作じゃないの? 私はアレルギーか何かじゃないかと思うんだけど。ほら、年を取ると体質も変わるし——」


 藍子は軽く肩をすくめ、おどけたように笑う。


「私、見かけによらず、けっこういってるんだよ」


 そして、少し真顔になりながら続けた。


「……大騒ぎすることないんじゃないかな」


 宇佐美の隣で、美土里が不安げな表情で宇佐美を見上げる。

 彼女もまた、宇佐美の意見を聞きたそうだった。


「鑑識が来れば、はっきりするでしょう。どうか、ゆっくり休んでいてください」


 藍子は納得のいかない顔をしながらも、無言で部屋へと入っていった。


 ドアが静かに閉まる。


 宇佐美は、美土里に向き直った。


「僕の部屋はどこでしょう? 荷物を置いてきます」


「ご案内します」


 美土里は前を歩き出した。


 きびきびとした動きだったが、心なしか肩が落ちているように見える。


 宇佐美の部屋は左翼の201号室。

 廊下の一番端に位置する、最も奥まった部屋だった。


 鍵を開けると、室内には柔らかな西陽が差し込んでいた。


 美土里は先に入り、クローゼットから荷物台を取り出して広げる。


「ありがとうございます」


 宇佐美は礼を言い、ボストンバッグを置いた。


 クローゼットを一瞥し、浴室へ向かう。


 ——白一色の空間。


 バス、トイレ、洗面台……すべてが清潔すぎるほどに白い。

 金属部分はピカピカに磨かれ、照明の光を強く反射していた。


「……徹底してますね」


 美土里がどれほど念入りに掃除しているのかが、この浴室ひとつで理解できた。


 反対側のドアを開ける。


 続き部屋——202号室。


 床に、まだ荷ほどきをしていない旅行カバンが置かれている。


 カバンを置いただけで、部屋にはほとんど手をつけた様子がない。

 ベッドも整えられたままだった。


「……透くんの部屋か」


 静かにドアを閉め、自室に戻ると、美土里がカーテンを引いていた。


 窓の向こうには、沈みゆく太陽の最後の光と、静かな藍色の海。


 こんなことがなければ——


 ここでお茶を飲みながら、ぼんやりと海を眺めていたかった。


 宇佐美は、わずかに残念な気持ちを抱えながら、美土里に訊いた。


「こちらは、建てられてどのくらいになるんですか?」


「百年になります。私の祖父が建てたものです」


 美土里の声は、どこか誇りを感じさせた。


「父は戦後、全財産を没収されましたが、遠方の島にあるこの屋敷だけは隠すことができたのです」


「……そうでしたか」


「国から文化財の指定を打診されたこともありましたが、そうなると改修の制約が多くなるため、お断りしました」


 宇佐美は、改めて美土里の手を見た。


 節くれだった、シミだらけの手。


 かつては良家の婦人として生きるはずだったのかもしれない。

 しかし今、彼女の手は長年の労働に耐えた者の手になっていた。




 宇佐美は部屋を出ると、鍵をかけながら廊下の先に目を向けた。

 二つ隣のドア。


 202号室(透の部屋)と204号室(藍子の部屋)の間に、もう一つ部屋がある。

 203号室は、202号室とドアが隣り合っていた。


「203号室は、どなたの部屋ですか?」


「これからお見えになる、藍子さんの旦那様のお部屋です」


 宇佐美は軽く驚いた。

 藍子が既婚者だったとは、思いもしなかった。


「ご主人は、明日のフェリーでここに?」


「ご自分の船をお持ちだそうです。いつ到着されるかは、藍子さんにも分からないようです——」


 美土里は、小さくため息をついた。


「藍子さんの旦那様が島にいらっしゃるのは、今回が初めてなんです……それなのに、こんなことになってしまって……」


「お会いになったことは?」


「いいえ、一度も。東京にいた時、蒼真そうまが大変お世話になったので、やっとお礼を言えると思っていたのですが……」


 美土里は一瞬、言葉を切り、続けた。


「港に着いたら、宝生様に事件のことをお知らせするよう、蒼真に言付けました」


「僕は、藍子さんと蒼真くんは、親密な関係なのかと勘違いしていました」


 宇佐美が言うと、美土里は「まさか!」と顔をしかめた。


「藍子さんは結婚されていますし、蒼真より年上ですよ」


 まるで、そんな汚らわしいことが身の回りで起こるはずがないとでも言うように、きっぱりとした口調だった。




 亡くなった今井の部屋は、右翼の205号室。

 206号室には朱美。

 207号室と208号室は続き部屋になっており、マミたち三人が使っている。


 宇佐美はハンカチを取り出し、205号室のドアノブを回した。


「ユカさんが薬を取りに来たときも、この部屋は開いていたんでしょうか?」


「いいえ。私のところに鍵を借りにいらっしゃいました」


「では、部屋を開けたのは?」


「私です。合鍵で開けて、すぐに食堂へ向かいました」


 部屋の中は、あまり使われた形跡がなかった。


 ベッドの上に、チャックが大きく開かれたリュックが置かれている。

 宇佐美はペンを使って中を探った。


 ——だが、求めているものは見当たらない。


「宇佐美様、ちょっと失礼いたします。すぐに戻ってまいります」


 そう言い残し、美土里は部屋を出た。


 宇佐美は窓の近くのテーブルに置かれた手帳に目を留めた。


 開かれているのは、今月の月間スケジュールのページ。


 今日の日付の欄には——


 缶ビール1、瓶ビール1


 他の日も、飲んだ酒の種類と量が細かく記録されている。


 手帳の表紙の裏には、健康診断の結果が貼られていた。


 血圧:高め

 コレステロール値:高

 中性脂肪値:高

 ガンマGTP:要注意


 宇佐美はページを指でめくりながら考えた。


 ——医者に酒量を減らすよう言われ、記録をつけるようになったのか?


 毎日体重を測るダイエット法があるように、これは節酒法の一種なのかもしれない。


 ——だが、それにしても。


“アレ”はどこにある?


 リュックの中にはない。

 クローゼットも空。


 今井は、すでに処分したのか?

 それとも——共犯者の荷物を調べれば見つかるのか?


 宇佐美は、ふと考えた。


 もし自分なら、証拠品をどう隠すか——。


 そして、一つの可能性が浮かぶ。


 ——まさか。


 宇佐美は息を詰め、今井の部屋を出ると、鍵を閉めた。


 急ぎ足で自分の部屋へ向かう。




 宇佐美は自分に充てがわれた201号室に入ると、暗い部屋に明かりをつけた。

 荷物台の上のボストンバッグを開ける——。


 そして、それを見つけた。


 荷物の一番下に、折り畳まれた黒のチュニックワンピース。


 宇佐美は、指先で慎重に持ち上げる。

 薄手の布。女性用のワンピース。


 ——昼間、崖の上で手を振る黒い影を見たとき——


 朱美は「あれは姉の和恵だ」と言い、藍子は「美土里だ」と言った。


 だが、宇佐美には背の低い、ずんぐりとした人物にしか見えなかった。


『翠眼亭』に和恵はいない。

 美土里でもないとすれば——。


 このシルエットに該当するのは、今井しかいない。


 今井は、このワンピースを着て崖から手を振った——。


 その後、すぐに服を脱ぎ、何食わぬ顔でテラスに戻り、写真を撮り、食事を楽しんだのか。


 だが、なぜ?


 宇佐美は、チュニックワンピースを見つめたまま考えを巡らせた。


 ——自分のバッグに入れたのは、誰か。


 なぜ、ここに?


 今井が、この服をわざと忍ばせたのか——。


 食堂の椅子に置きっぱなしだった、自分のバッグ。

 長時間、無防備な状態だった。


 証拠品を、島を出る予定の男の荷物に紛れ込ませるため?

 島外に持ち出させるため?


 宇佐美は、そっとワンピースを畳み直し、深く息を吐いた——。

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