第35話 暗転①

「父から見せられた地図では、日本はとても広い国でした……満州や東南アジア、樺太——私はずっと、父から教えられた日本を信じていました」


 美土里の父親は関東軍の将校だったのだろうか。

 満州からの略奪品をこの島に運び入れて、現実から目を背け、過去の栄光に浸って暮らしてきたのか。

 娘を学校にもいかせず、女中のように扱い……。


「黒岩に翠眼すいがん様が現れたのは、父が亡くなってからなんです……翠眼様の見ている遥か先には、大陸があります……翠眼様は父の無念が現れたんじゃないかと思うんです——あの大陸は日本のものだと、悔しい思いで父が見つめているような気がします……」


 心を許してくれたのか、美土里は次々と思い出話を語って聞かせてくれた。


 ——人間が一つの口と二つの耳を与えられたのは、話すことの二倍、聴くためだ——。


 なにかの折に中学の担任から教わった言葉だが、宇佐美はそれ以来、人の話に耳を傾けることに気を配ってきた。


 このままこの幸薄い老婦人に寄り添っていたかった。

 だが、仕事がある。

 美土里が一息ついた時を見計らい、宇佐美は口を開いた。


「美土里さん、この下には」と床を指差す。「何があるのですか?」


 思い出に浸っていた美土里は、ハッとした顔をした。


「今お座りになっている床だけ軋んでいますが、地下室でもあるのですか?」


 美土里が困惑した顔で言い淀んでいると、今度は階上から音がした。


 ——扉が開く音だった。


 宇佐美はさっと上を見る。


「今、上の部屋のドアが開いた音がしましたね」


 美土里は、「何も聞こえませんが……」とあっけに取られた顔をしたが、宇佐美は見ていなかった。


 天井を見ながら素早く立ち上がる。


「美土里さん、あまり思いつめないで下さい。中から鍵を掛けて、僕が戻ってくるまで部屋を出ないで下さい」


 そう言って、宇佐美は急いで美土里の部屋を出た。

 真上の部屋は201号室。

 宇佐美の部屋だ。

 ——鍵がかかっているというのに、いったい誰が侵入したのだ?




 宇佐美は暗い廊下を走った。

 二階へと通じる階段を横目に、遊戯室の扉を開ける。


 部屋には宿泊客全員がいるはずなのに、ユカとマミしかいなかった。


「他の皆さんは、どこです!」


 宇佐美の口調が強かったせいか、二人は驚いた顔をした。


「——シホは、トイレです」とマミ。

「……女の子の日だから……」とユカ。「時間、かかってるだけです……」


「藍子さんととおるくんは?」


 宇佐美が訊くと、二人は揃って窓の外を指差した。


「……タバコ、吸ってます」


 マミの言葉を聞いて、宇佐美は腰窓まで走った。

 窓を開けると、藍子と透の姿があった。


「部屋に戻って下さい!」


 宇佐美が強く言うと、透は慌てて頭を下げた。すぐにタバコを消す。


「風がやんできたよ」と藍子は笑った。「お仲間がやっと来るね」と美味そうにタバコの煙を吐く。


 その間に透は、すいませんでしたと宇佐美に頭を下げて、そそくさと窓から部屋の中に入った。


「部屋に戻って下さい」


 宇佐美にきつく言われても、藍子はせせら笑うだけ。


「あんたさ、もう犯人がわかってるんでしょ? 私は休日を台無しにされた民間人なんだよ。もっといたわって欲しいなあ」


 宇佐美は口だけで微笑んだ。

 凄みを目に込めて「どうぞ中にお入り下さい」と、大げさな紳士的な手振りで藍子を部屋に招く。


 藍子はタバコを投げ捨てると、鼻で笑った。

 宇佐美の手を借りて、窓から部屋の中に入る。


「透くん! 今から誰もこの部屋から出してはいけませんよ!」


 宇佐美に厳命されて、透はしょげたように下を向く。どうもすいませんでしたと、小さく言った。


 宇佐美は遊戯室を出た。




 二階への階段を駆け上がりながら、宇佐美には不思議に思うことがあった。


 自分は耳が良いほうだ。

 一階にいれば、二階の扉の開閉まで聞こえた。


 だが犯人が梅子の死体を引きずって今井の部屋まで運ぶ音が聞こえなかった。


 引きずったのではないのか——。

 音がしないように死体を持ち上げて運んだのか。


 複数人で……。


 懐中電灯を片手に暗い階段を駆け上がる宇佐美は、自分の推測に気が滅入ってきた。




 

 

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