第37話 暗転③

 懐中電灯の明かりだけを頼りに、宇佐美は暗い階段を下りた。

 片手はシホに握られている。


 ——あと数時間もすれば、外は白み始めるだろう。

 そうなったらすぐに『翠眼亭すいがんてい』を出て、港に向かう。


 宇佐美には淡い期待もあった。

 

 藍子が言う通り、風は止んでいた。

 とおるから連絡を受けた地元警察が、こちらに向かって来てるかもしれない——。


 一階まで下りた宇佐美は食堂の方に明かりを向けた。

 闇の中に扉が浮かぶ。

 あの中に今井の遺体がある。


 『翠眼亭』の鍵は部屋番号が記されたキーフォルダーを変えれば、どこの部屋の鍵なのか外見では分からない。


 宇佐美は今井の遺体がある食堂に入り、自分の仮説の正しさを確かめたかった。

 だがそれは後回しだ。

 今はこの屋敷にいる全員を守る事に専念しなければならない。


「——駿しゅん


 シホが強く手を握ってきた。


「——って、呼んでいい?」

「どうぞ」


 手を握りながらシホが、ちらちらと何度も宇佐美の顔を見上げていたのには気付いていた。


 昔飼っていた黒柴を思い出す。

 宇佐美が本を呼んでいる時も、机に向かっている時も、じっと宇佐美の事を見つめていた。目が合っても微動だにしないくせに、尻尾だけは激しく揺れていた。

『幸太郎は本当に駿の事が好きなのね』と母親は笑い、『犬は家の主人に懐くんじゃないのか』と父親は苦笑いした。

 宇佐美が生まれ育ったのは、埼玉県と山梨県の県境。万事がのんびりした地域だ。

 少年だった頃、将来は農家を継ぐのだろうと漠然と思っていた。

 こんな状況に出くわす未来など、想像もしなかった。

 



 エントランスホールを横切り、遊戯室に向かう。

 向かいながら、気になるのは一人にしている美土里のことだった。

 もし蒼真そうまが部屋の窓を叩いたら、息子可愛さに美土里は蒼真を中に入れてしまうかもしれない。


 蒼真は美土里の美術品を狙っているというのに——。


 遊戯室のドア前まで来ると、宇佐美はシホの手をやんわりと外した。


「部屋にいて下さい。もう勝手に出歩かないで下さい」

「駿は?」

「美土里さんを呼んできます。その後は僕も部屋にいます」


 よかったと小さく言ってシホは振り返り、ドアノブに手をかける。


 ほんのわずかドアが開いただけで、宇佐美はすぐに異変に気付いた。


「廊下にいて下さい」とドアに手をかけて、シホを脇に追いやる。


 宇佐美は静かにドアを開けた。

 電池式のキャンドルで明るく灯されていたはずの遊戯室は、廊下と同じく真っ暗闇だった。


「透くん、どこですか?」


 懐中電灯で中を照らしながら呼ばわったが、返事はなかった。

 ドアを開けたまま、一歩、部屋の中に入る。


 部屋の奥に赤と黄色のライトが見えた。


「マミさん、ユカさん、どうしたんですか?」


 黄色のライトは揺れ、赤いライトは点滅を始める。


 ライトの方に数歩歩いたところで、宇佐美の足に何かが当たった。

 懐中電灯を当てると、人間の頭が見えた。


 ぎょっとしながらライトを当てると、透がうつ伏せに倒れているのが見えた。

 背筋を凍らせながら、屈み込む。


「透くん!」


 息はあるが、透は揺すっても起きなかった。

 近くには同じ様に倒れている藍子の姿もあった。


 ——いったい、何が起こってるんだ?


 宇佐美は部屋の奥の赤と黄色のライトを見た。

 黄色のライトは変わらず揺れているが、赤のライトは同じ間隔で点滅を繰り返している。


 ——なんだ? モールス信号?


 一瞬、SOSかと思った。

 だが赤いライトが発しているのは、救助信号ではない。

 それは全く違う意味を持つ信号だった。


 宇佐美がモールス信号に興味を持ったのは高校生の時だ。

 当時遠い国の戦地で日本人ジャーナリストが人質となり、殺害されるという事件があった。その時撮られた動画の中で、そのジャーナリストが、まばたきでモールス信号を送ったのではという話を聞かされたのがきっかけだ。

 真偽はともかく、若い宇佐美はその話に強く感動した。死に際にジャーナリストが送ったという信号を調べて覚えた。


 そして今、赤いライトが発しているのは、正しくその信号だった。



 ——タスケルナ ミステロ——



 宇佐美はシホに向かって怒鳴った。


「シホさん! この部屋から離れて! 走って逃げて下さい!」


 怒鳴った途端、後頭部に衝撃を受けた。

 床に倒れ込んだ宇佐美は、シホの足音を聞くことが出来なかった。

 




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