第8話 ゼロ号室の客④

 ペンションの受付で九我と電話をしながら、宇佐美は奥の半開きになったドアをちらりと覗き込んだ。


 中は銅像や大きな花瓶、古びた家具など、雑多なものでごった返している。梅子のために一階の部屋を作るため、物置の中身を急遽ここに移動したのだろう。そのせいでドアを閉め切ることができなくなっているようだった。


『婆さんの気が変わる前に、早く帰って来い!』

「そうですね……」


 宇佐美は気のない返事をしながら、部屋の奥に目を向けた。

 そこに『水酸化ナトリウム』と書かれた容器が目に入る。掃除用の薬剤だろうが、劇薬が誰でも手に取れる場所に置かれているのは明らかに問題だった。


「九我さん、調べていただきたいことがあります」

『俊介君は、休暇中だよな!』

「……お願いします、正語しょうごさん」

『こっちはどうするんだ!』

「あの人のことは、待たせておきましょう」


 宇佐美は視線を外に向けた。

 奥の部屋の窓越しに、バイクにまたがる蒼真の姿が見える。近くには藍子の姿もあり、彼女が蒼真に駆け寄っていた。


 短く調査を依頼すると、九我が文句を言う前に「よろしくお願いします」とだけ告げ、電話を切った。


 足の踏み場もない狭い部屋に入り、荷物をかき分けながら通用口から外に出る。木々の陰に身を隠し、二人の会話に耳を傾けた。


そうちゃん、どこに行ってたの!」

「……和恵さんに電話してた……でも連絡つかない……」


 藍子の詰問に、蒼真は子どものようにうつむいた。


「どうしたの? 和恵さんって朱美さんのお姉さんよね? ただのお客じゃなかったの?」

「……あの人、ここに住みたいって言ってきたんだ。このペンションを買いたいって……もちろん、母さんは断ったけど……」

「まさか、蒼ちゃん、勝手にその人と話を進めたの?」

「……俺は、島を出たいんだ……」

「バカっ! 美土里さんがここを売るわけないでしょ! で、どうしたの? 和恵さんはちゃんと帰ったのよね?」

「……帰った、と、思う……港まで送ったけど、フェリーに乗るとこは見てない……」


 藍子は蒼真をじっと見つめる。

「まだ何かあるんでしょ?」


 蒼真は躊躇いながら告げた。

「……手付金だって、三百万振り込まれた……」

「返したよね?」


 蒼真は黙り込んだ。


「使ったの!?」

「滞っていた支払いが、あって、つい……」

「バカっ! すぐに返しなさい! 三百万ぐらい私がなんとかする!」

「ダメだよ……藍子さんには、これ以上迷惑かけられない……」


 蒼真の声は小さく、消え入りそうだった。


 藍子はため息をつき、視線を外す。

「とにかく蒼ちゃんは仕事して! ランチを食べたらフェリーに乗って帰る客がいるでしょ。私も一緒に港に行くから、二人で相談しようよ」


 蒼真はほっとしたように微笑み、力なく「ありがとう」と呟いた。


 二人が去るのを見届けた宇佐美は、振り返る。


「僕になにか御用ですか?」


「気づいてた?」


 とおるがタバコを咥え、壁にもたれていた。


「あんたが盗み聞きするタイプだとは思わなかった。聖人君子って感じなのにな」

 透は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「梅子さんの近くにいなくていいんですか?」

 宇佐美は表情を変えずに問い返す。


「お祖母ばあちゃんは今、警察ごっこしてるよ。女の子のぬいぐるみの首切ったのは、今井っておっさんだって決めつけて、食堂で騒いでる」


「何か根拠があるんですか?」


「おっさんが二階に上がっていくのを見たんだってさ。でも二階に部屋があるんだから、当たり前だろ?」


「そうですね」


 透は肩をすくめる。

「お祖母ちゃんは、フェリーに乗ってる時から、あのおっさんのこと怪しんでたんだ。悪人だって決めつけたら、証拠でっち上げてでも犯人にしちゃうような人だよ——マジで警官みたいだろ」


「警察官にいい印象がないんですね」


 透は顔をしかめながらタバコを吸った。

「俺は、女の子の中の誰かがやったと思うけどな。一人だけ年が違う子いるじゃん。赤いシャツの子。あの子のこと『あんな年上だと思わなかった』って黄色いシャツの子が青いシャツの子に言ってたの聞いちゃったんだ。まあ、三十になってゲームキャラの追っかけって、イタいもんな——女の子って陰険だし、ああいうことやりそうじゃん。あんたも、そう思わない?」


「わかりません」

 宇佐美は淡々と答えた。


 その平静さに苛立ったのか、透は短くなったタバコを地面に投げ捨てる。乱暴に足でもみ消した後、新しいタバコに火をつけた。


「あんた、今夜泊まることにしたんだって?」


 宇佐美は身体を屈め、透が捨てた吸い殻を拾い上げる。

「ええ、海がきれいなので、予定を変更しました」


 その言葉を聞いた透はニヤリと笑い、急に宇佐美の腕に腕を絡めてきた。


「今夜部屋に行っていい?」


 透が耳元で囁くように言い、さらに肩にもたれかかる。

「あんた、さっき俺のこと綺麗だって、見惚れてたろ? 俺も退屈してんだ。一晩遊ぼうよ」


 透の息からは、酒の匂いが漂ってきた。


「俺、今年で二十歳になるから、淫行条例に引っかからないよ」


 宇佐美は透の腕をやんわりと外し、同時に透の手からタバコを取り上げた。

「未成年でしたか」


 その一言に、透の表情が一瞬こわばる。眉を吊り上げ、宇佐美を鋭く睨みつけた。


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