第3話
十四年ぶりの祖母との再会は病院のベッドだった、そんな話を聞いた伊織は唇を引き結んで押し黙る。年若い高谷がそんな苦労をしてきたとは。
大学まで実家暮らし、平凡からの脱却を目指し意を決して東京へ出た伊織はそれなりに苦労人だと思っていた。しかし、ままならぬ環境でこんなにも心を砕いている相手に何と声をかけたらいい。
「母親には会えていないんだ、今更どんな顔をしたらいいのか分からないよ」
高谷は目を細め、皮肉な笑みを浮かべる。十四年分押し殺してきた複雑な感情に晒され、心がざわついている。母に会いたいかというと、もはや自分でもどうしたいのか分からなかった。
「取り繕う意味はない。言いたいことを言え、聞きたかったことを聞け」
珍しく強い調子の曹瑛の言葉に、高谷はハッと顔を上げた。
ずっと胸の中にしまい込んでいた、聞くのが怖い問いだった。高谷は胸に秘めた恐れを曹瑛に見透かされた気がして、視線を逸らす。
「瑛さんも、両親に会えたらそうした・・・・・・?」
曹瑛は幼少の頃に兄劉玲と共に両親に売られ、組織の暗殺者として生きることを余儀なくされた過去がある。目の前のどら焼きを頬張る男は想像を絶する過酷な人生を送っている。曹瑛には高谷の気持ちが分かりすぎるほどに分かるのだ、と伊織は思う。
「ああ、そうするつもりだった。二十歳を越えて組織から仮の自由を与えられたとき、故郷の村を訪れた。しかし、両親の所在はわからなかった。何を言おうとしたのかずっと考えていたが、もう忘れた」
それから両親の消息を辿る気は無くした、という。曹瑛はどら焼きを平らげ、大きな欠伸をひとつした。
「お前の兄、榊も同じことを言うだろう」
曹瑛の言う通りだ。高谷は強く頷いた。
「そう言えば、榊さん遅いな」
榊とはこの烏鵲堂カフェスペースで待ち合わせをしている。高谷はスマートフォンを確認するが、メッセージは入っていない。いつもこのくらいの時間にはやってくるはずだが。
「榊さんの車を見たよ」
伊織はここへ立ち寄る前、榊がいつも駐車するコインパーキングで黒いBMWを見た、という。何かと乗せてもらうことが多いのでナンバーも見間違いはない。
「車を停めたまま寄り道してるのかな」
まさか、たい焼きが焼けるのを待っているのか。いや、今日は飲みに行く予定だからそんな買い物はしないはずだ。高谷はラインで榊にメッセージを送ってみる。しかし、時間を置いても既読がつかない。
「急な仕事が入ったにしても、車を置いていくのはおかしいな」
伊織は首を傾げる。
「うん、それならそうと連絡をくれるはずだ」
榊はマメな男だ。もし時間がかかるなら必ず連絡をくれるはずだ。何かできない事情があるのだろうか。
「コインパーキングへ行ってみるか」
曹瑛が長袍から黒いハイネックとグレーのジャケットに着替えて三階から階段を降りてきた。
逸る心を抑えきれず、高谷は足早に駆ける。すずらん通りの老舗画廊の角を曲がって二ブロック先に榊がいつも車を停めるコインパーキングがある。
「車はそのままだね」
榊のBMWは伊織が確認したときと同じ場所に駐車されたままだ。曹瑛が出庫ボタンを押してみると、二時間分の料金が表示された。
「ここに車を停めたまま、二時間もどこかへ行くなんて」
神保町周辺の客先で商談の可能性も無いわけではないが、考えにくい。
「あ、何か落ちてる」
伊織がBMWの下に光るものを見つけた。拾い上げて街灯の明かりに照らして見ると、ミッドナイトブルーのデュポンだ。
「榊のだな」
曹瑛は榊と同じく喫煙者だ。どんなライターを使うのかよく知っている。こんなものを落として行くだろうか、しかも車の下にだ。高谷は背中に冷たいものが滑り落ちるのを感じた。
高谷はコインパーキングの上空を見回す。ポールの先についた防犯カメラを見つけて肩掛けバッグからタブレットを取り出した。
「カメラの映像をジャックする」
アスファルトの上に胡座をかくとキーボードを叩き始める。榊に何かあったに違いない。ディスプレイの青白い光が照らす高谷の顔は真剣そのものだ。曹瑛はそれを横目に、スマートフォンを取り出して操作を始めた。
「映像が出たよ」
高谷が画面を示す。防犯カメラの映像を巻き戻していくと、路上に停車したフルスモークの黒いベンツと複数の男たちの姿が確認できた。三人の黒服の男たちが榊を囲んでいる。榊は抵抗せずに男たちに連れられ、ベンツの後部座席に押し込まれた。
「これって誘拐事件、だよね」
伊織の声はうわずっている。どう見ても楽しいパーティのお迎えではなさそうだ。
「榊は抵抗していない。つまり、奴らは銃で脅しをかけたのだろう」
三人に銃口を向けられるとなれば、いくら喧嘩が達者な榊でも太刀打ちできない。曹瑛は冷静に画像を観察する。
「そんな、榊さんが……呼び出した俺のせいだ」
高谷は呆然と画面を見つめている。榊は連れ去られる間際、デュポンを落として車の下に蹴り飛ばし、緊急事態の発生を伝えたのだ。
「しっかりしろ、高谷。画像にヒントがあるはずだ」
曹瑛の呼びかけに高谷は目を見開き、両手で頬をパチンと叩いた。
「車のナンバーはわかる?」
伊織の問いに高谷は黒いベンツのナンバープレートを拡大表示する。しかし、プレートは黒くぼやけて番号が認識できない。
「目隠しだな」
曹瑛はチッと舌打ちをする。ナンバープレートに特殊な偏光カバーを取り付けることで防犯カメラを欺く手口だ。
「情報屋から連絡がきた。店で作戦会議だ」
曹瑛はスマートフォンのメッセージを確認し、踵を返す。高谷が防犯カメラをジャックしているうちに情報屋に連絡をつけて調べさせたのだ。曹瑛の対応の早さに高谷は驚きを隠せない。
「榊さんを助けよう」
伊織がミッドナイトブルーのデュポンを高谷に手渡す。
「うん」
高谷は冷え切ったデュポンを強く握り締めた。
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