第5話
高層ビルの谷間に陽が落ちるのと入れ替わりに、すずらん通りの街灯が白い光を放ち始める。烏鵲堂カフェスペースは閉店時間まであと十分足らず。曹瑛は最後から二番目のお客を送り出した。窓際のテーブルに一人腰掛ける老紳士が上品な所作で鳳凰単叢を楽しんでいる。
白髪交じりの頭髪は年の割に豊かに波打ち、威厳を感じさせる。シャープな鼻筋に意思の強そうな濃い眉、やや厚みのある唇は情感豊かな印象を与えた。なにより目を引くのはその鋭い眼光だ。年相応にやや垂れた目尻の奥に只ならぬ光を湛えている。
シックなチャコールグレーのオーダーメイドのスーツは彼の品格を存分に引き立てていた。
「お前にこんな特技があったとは」
老紳士は芳醇な茶の香に口元を緩める。
「必要に迫られて覚えた」
曹瑛は茶壷にポットの湯を注ぐ。
「なかなか良い店だ。接待を受けた上海の茶館を思い出す」
老紳士はいたく感心しながら烏鵲堂店内を見回す。いや、上海の高級茶館よりも品がいい。妥協ないデザインに細心のこだわりを感じた。
「あんたの息子のおかげだ。この店のプロデュースは奴が手がけた。いけすかない奴だが、仕事は間違い無い」
曹瑛は茶壷を傾け、茶海に茶を移す。最後の一滴が滴り落ちるのを待って茶杯に注ぐ。
老紳士、榊原昭臣は曹瑛の流れるような茶芸を眺めている。茶の香りを楽しみ、飲み干すと曹瑛の顔を見上げた。
「わしがなぜここに来たか知っているようだな」
「予測はつく」
曹瑛は小さく頷く。昭臣は視線を落とす。
「英臣がならず者に拉致された。行方は分からん」
榊原昭臣は神奈川県西部を支配下に置く極道の親分だ。そんな男がボディガードもつけず、ここにひとり座っている。昭臣は厳しい表情を崩さないが、微かな憂いを帯びていた。
「英臣を助けてくれんか」
昭臣はかつてハルビンで暗殺者に襲撃され、曹瑛の機転で命を救われたことがある。曹瑛の元プロの暗殺者としての腕を買っての依頼だった。
「それは、父親としての頼みか」
予想外の問いに、昭臣は険しい表情を浮かべる。昭臣は請われたとはいえ、榊を離縁している。極道の頭を張る男だ。一度離縁した男を助けるような真似をすれば面子に関わる。
昭臣は無言のまま立ち上がり、曹瑛に真正面から向き合った。鋭い眼光で曹瑛を見据える。並みの人間なら逃げ出すほどの殺気を漲らせている。
「理由が必要ならば、そうだと言おう。頼まれてくれないか」
昭臣は深々と頭を下げた。組長のプライドなどかなぐり捨てる覚悟が垣間見えた。
「よせ、俺は足を洗った。もう閉店時間だ、帰ってくれ」
曹瑛は小さく溜息をつき、茶器を片付け始める。昭臣は頭を下げたまま微動だにしない。
階段を駆け上がってくる軽やかな足音が聞こえる。
「曹瑛さん、車のナンバーが分かったよ」
高谷がタブレットを片手に息を切らして駆け込んできた。昭臣の姿を見て驚いて階段を転げ落ちそうになり、手すりにしがみつく。
「結紀か」
「父さ、あ、いや、どうしてここに」
高谷はぱっちりした丸い目を見開いたまま曹瑛と昭臣を見比べる。
「高谷には世話になっている。間抜けな兄が誘拐されたと聞いた。仕方無いから手伝ってやっている」
曹瑛は腰に手を当ててそっぽを向いてみせる。昭臣は鼻を鳴らして笑った。
「結紀、英臣を頼んだぞ。情報があれば大塚から知らせる」
昭臣はハンガーにかけたコートを羽織り、高谷の肩に手を置いた。
「うん、兄さんは必ず助けるよ」
高谷は昭臣を見上げ、ゆっくりと頷く。昭臣は任せたぞ、と高谷の肩を強く握る。曹瑛にもう一度頭を下げ、階段を降りていった。
昭臣とすれ違いざまにやってきた伊織が差入れを持って来た。熱々のたい焼きをつまみに作戦会議を始める。
「車のナンバーを解析して陸運局に問い合わせたんだ。寺岡組若頭補佐の女の名義だった」
高谷がそこまで調べ上げたのはもちろん合法的な手段ばかりではない。
「寺岡組が噛んでいることは確かだ。背後には中国広州の組織牛頭会の影がある」
曹瑛は長い脚を組み換え、真剣な面持ちでたい焼きにかぶりつく。
牛頭会は広州のチンピラどもの寄せ集めで、マカオで場末の闇カジノを複数取り仕切っているという。上海は九龍会が幅を利かせている。新天地でビジネスチャンスを求めていたところ、その足がかりが寺岡のホテル買収だった。
カジノ経営のノウハウやと?ヘソで茶が湧くで、とは曹瑛の兄、劉玲の言葉だ。
「牛頭会は要人の誘拐で荒稼ぎしている。野盗のような奴らだ」
榊の拉致には牛頭会の入れ知恵があったに違いない。
「奴らもプロだ、要求を呑ませるまで人質に手出しすることはない」
しかし、人質が無事に帰ってくるケースは稀だ。結局口封じで殺害されることも多い。高谷と伊織はホッとしているが、事態は深刻だ。曹瑛は唇を引き結ぶ。
「榊さんの居場所は見当がついてるの」
伊織が曹瑛と高谷の顔を見比べる。
「スマートフォンのGPS信号は都内で途切れたんだ。手がかりがないよ」
高谷は力無く首を振る。曹瑛も榊の居場所までは辿り着いていないようだ。面白くない顔でジッポを弄んでいる。
高谷のスマートフォンが振動する。電話の主は榊原組若頭の大塚だ。昭臣から指示を受けてすぐに連絡を寄越したのだろう。
「ぼっちゃん、
普段冷静な大塚の声に動揺の色が窺える。
榊原組がホテル買収を阻害したことで榊を拉致し、手を引くよう要求しているという。返事は明日の正午まで、それまでに決断しなければ命の保証はないと。
「なんて卑劣な奴らだ」
白いシャツを切り裂かれ、胸を血で濡して屈辱に唇を歪める兄の姿が脳裏に浮かび、高谷は唇を噛む。
「寺岡の連中が数日前、六本木のバーで騒いでいたという情報がありまして」
大塚はもしかしたら何か手がかりがあるかもしれないと、店の名を教えてくれた。
「うち《榊原組》は大っぴらに動けないんです。ぼっちゃんが頼りです。若をどうか、お願いします」
律儀な大塚は電話の向こうで深々と頭を下げているだろう。
「兄さんは俺が守るよ」
電話を切ったあと、高谷は自分に言い聞かせるように呟いた。
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