第4話

 高い天井から差し込む光がひび割れたコンクリートの床を照らしている。どこか遠くから水音が響いている。喉が恐ろしくカラカラだった。身体を捩ると、真上に釣り上げられた両腕が軋み、榊は小さく舌打ちをする。

 ひんやりと湿気を含んだ空気が肌に纏わり付く。靴先は辛うじて床につくが、体重を充分に支えることはできない。手首には天井からぶら下がっる武骨な鎖が何重にも巻き付いている。


 荒々しい足音が近付いてきた。重い鉄製の扉が乱暴に開け放たれる。黒いスーツの男たちが大股で踏み込んできた。品の無い柄シャツの二人は下っ端だろう。もう一人はてっぺんを明るい茶色に染めたツーブロックだ。紫色のネクタイは悪趣味だが、奴らの中では服装が一番まともだった。

 ツーブロックが威嚇するように足を踏みならしながら榊の足元に近付いてくる。似合わないハイブランドのサングラスを勿体つけて外し、榊を見上げた。


 その目つきは多少の修羅場はくぐっていると見えた。しかし、姑息な笑みを浮かべる顔に道義は感じられない。

「榊英臣だな」

 男は金張りのジッポでタバコに火をつける。榊を睨み付けながらこれ見よがしに煙を吐き出す。

「お前ら誰だ」

「おっと、初対面だったな。自己紹介をしたいところだが、その必要はねえ」

 ツーブロックが肩をすくめると、背後の腰巾着の二人が下品な声で笑う。


 榊は射貫くような眼光でツーブロックを見下ろす。ツーブロックは榊の視線に苛立ちを覚える。

「こんな状況だってのに、一言もわめかねぇとは大した度胸だ」

 ツーブロックはタバコを床に投げ捨て、靴先で雑に揉み消した。榊に向き直ると、拳を握り締め頬を殴りつけた。

「ぐっ……」

 榊はそれでもツーブロックを見据えたまま目を逸らさない。


「お前を捕えたのは上からの命令だ。だが、お前のことは昔から気に入らなかった。運良く鷲尾がいなくなって若頭にのし上がり、経済ヤクザを気取りやがって」

 榊は鷲尾の名を聞いて微かに目尻を細める。切れた口の端から血が滴り落ちて白いワイシャツの胸元に赤い染みを作った。

「俺のことを褒めてんのか」

 榊は鼻を鳴らし、血の混じった唾をツーブロックの足元に吐き捨てた。


「余裕こいてんじゃねぇぞ」

 ツーブロックは下品に舌を巻きながらズボンの尻ポケットから折りたたみナイフを取り出し、榊の鼻先に突きつける。身長が足りず、背伸びしている姿はあまりに滑稽だ。

「その生意気なツラ、二度と陽の目を見られないようにしてやろうか」

「やってみろ」

 榊はツーブロックを口の端を吊り上げ、冷酷な目で見下す。静かな怒気に、ツーブロックは背筋が震え鳥肌が立つのを感じた。


 一瞬でも恐怖を覚えたことが屈辱で、ツーブロックは叫びながらナイフを薙いだ。

「くっ」

 白いシャツが大きく裂け、鍛え上げた胸板に赤い筋が走る。榊はそれでも命乞いをせず、視線だけで野獣共を威嚇する。


 ***


「ああ、どうしよう榊さんっ」

 高谷はテーブルに突っ伏して頭を抱える。監禁部屋の中で天井から鎖に繋がれ、白いシャツが切り裂かれ健康的な薄褐色の肌を曝け出し、口の端から血を流す兄の姿を妄想して身悶える。

「高谷くん、榊さんは無事だよ。もし危害を加える気ならその場で何か起きてるよ」

 伊織は言葉を選びながら高谷を宥める。大切な兄に命の危険が迫っている。高谷が錯乱するのは無理はない。


「誘拐は手間がかかる。誘拐という手段を取ったということは何か代償を求めてくるはずだ」

 曹瑛は至って冷静だ。しかし、伊織は先ほどから肌がピリピリするほどの怒気を感じている。榊は曹瑛にとって無二の好敵手だ。榊を助けるために全力を尽くすつもりに違いない。

「榊原組が横浜の組と揉めているようだ」

「えっ」

 榊原の名を聞いて、高谷は思わず叫ぶ。


「榊原に横浜の廃ホテルの競売の邪魔をされた寺岡組、こいつらが不穏な動きを見せている」

 曹瑛の情報屋の話では、廃業した比較的築年数が浅いホテルを横浜を拠点とする極道、寺岡組がフロント企業を使って入札しようとした。しかし、榊原が値を釣り上げてそれを阻止しているという。

「榊原は小田原の組だ。神奈川全土に影響力はあるけど、どうして横浜のシノギに手出しするんだ」

 高谷は父昭臣が他所のシマに手出しすることが信じられない様子だ。


「寺岡組はホテルを買い取ってどうしようとしているんだろう。まさか、観光地を盛り上げようって訳じゃないよね」

 話を聞いていた伊織が疑問をぶつける。

「そうだ」

 曹瑛が頷く。寺岡組はホテルの地下フロアで闇カジノを開こうという算段だ。その資金の借り入れと経営ノウハウ獲得のために中国の黒社会と手を結ぼうとしているという。


「そんなことをしたら尻の毛まで毟られるよ」

 高谷は眉根をしかめる。

「日本進出のために最初はいい顔をしているが、踏み台にしたあとは道義など皆無だろうな」

 曹瑛は中国黒社会の生き馬の目を抜く苛烈なやり方をよく知っている。昨日まで仲良く握手を交した相手を翌日には凍結した松花江に沈めるなど日常茶飯事だ。


「榊さんは取引のカードに使われたってこと」

 高谷は悔しさに唇を噛む。掠われたのが自分なら良かったのに。鎖で繋がれ唇の端から血を流しそれでも屈しない兄の姿が脳裏に浮かび、爪が突き刺さるほどに拳を握り締める。

「それじゃあ、榊原組に榊さんを誘拐したって連絡が入ってるかもしれないね」

「ああ、榊は無事のはずだ。榊原が下手な判断を下すまでは」

 曹瑛の言葉に、伊織と高谷は青ざめる。


 榊の命がすぐに危険なわけではないこと、曹瑛が引き続き情報を集める、というのでその日は解散となった。烏鵲堂を出て、伊織と高谷は神保町駅へ向かう。その足取りは重い。

「きっと大丈夫だよ、俺たちで榊さんを助けよう」

 伊織の言葉に勇気づけられ、高谷は目尻に溜まった涙を隠すように拭った。

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