第6話
煉瓦造りの壁に嵌め込まれた重厚感のあるマホガニー製の扉をアンティークのランプが照らしている。寺岡組の連中が騒いでいたという六本木の裏路地にあるバーは予想外に上品な店構えだ。
時刻は午前一時前。閉店間際の客がはける頃合いを見計らってやってきた。
伊織は缶入りのブラックコーヒーで眠気と戦っている。
「俺、聞き込みに行ってくる」
高谷は神妙な面持ちで曹瑛と伊織の方を振り返る。高谷は一人で乗り込むつもりなのだ。もし、寺岡組と繋がりのある店なら危険だ。伊織は高谷を引き留めようとする。しかし、曹瑛が伊織を制した。
「お前に任せる」
伊織は高谷の決断に驚いたが、曹瑛はそのつもりだったらしい。高谷は二人の顔を見比べて大きく頷く。息を大きく吸って、吐いた。
黒い鉄製の把手に手をかける。思い切って扉を開くと、暖色系のダウンライトの明かりが路地を照らす。高谷は意を決して足を踏み入れた。
「高谷君、榊さん救出のためとはいえ、一人で背負いすぎじゃないかな」
この店に来ることを決めてから、高谷はひどく口数が少なくなった。表情も硬く、思い悩んでいるようだった。榊の居場所が掴めるかはこの店での聞き込みにかかっている。そのプレッシャーにかたくなに一人で立ち向かおうとしている高谷を伊織は心配している。
「ここは高谷ひとりで行くべきだ」
曹瑛は腕組をしたまま冷静に構えている。突き放すような言葉に、伊織は眉を顰める。いや、複数で乗り込んだら警戒されるかもしれない。曹瑛には何か考えがあるはずだ。
「高谷君ならきっとうまくやれる」
伊織は自分に言い聞かせるように呟く。高谷は頭の回転が速く、年若い割にしたたかだ。こういった交渉事は短絡的な曹瑛よりも
「この店でなければ俺が行った」
「どういうこと」
曹瑛の意図が分からず、伊織は首を傾げる。曹瑛の視線を追うと、店の看板にぶつかった。煉瓦の壁に掛かったシックなデザインの黒木の看板に白文字で店名が書かれている。柔らかなランプの光に照らされた文字に、伊織はハッと目を見張る。
「まさか、この店」
曹瑛は腕組をしたまま、無言で小窓から漏れる光を見つめている。
店内は木目調の温かみのある雰囲気で統一されていた。天井からレトロなデザインの洋風ランプがぶら下がり、柔らかな光を落とす。
カウンターにスーツ姿の白髪混じりの男が一人、テーブル席に男女カップルが座るのみ。耳に心地よい男性シンガーのオールディーズは確か、遠く離れた故郷を懐かしむという歌詞だ。
高谷は重厚な一枚板のカウンターの一番端に腰掛ける。
「まだ一杯くらいいけるかな」
「ええ、もちろん」
上品なグレーのグラデーションの髪を撫でつけ、黒縁メガネをかけたマスターは穏やかな声で応じた。カウンター背後の酒のラインナップからすると、ウイスキーにこだわりのある店のようだ。
「ギムレット」
高谷が選んだのはジンとフレッシュライムのシンプルなショートカクテルだ。マスターはジンのボトルを取り出し、メジャーカップでシェイカーに注ぐ。ライムジュース、シロップを加えてバースプーンで軽やかに掻き混ぜる。
気取らない自然な所作だ。ベテランならではの貫禄がある。マスターがシェイカーを振ると氷がカラカラと軽やかな音を立てた。
高谷はギムレットをひと口含む。すっきりとした辛口に爽やかなライムの風味が鼻に抜ける。榊に誘われてバーに来たとき、初めて飲んだのはギムレットだった。
ひと呼吸置いてマスターと向き合う。
「昨夜この店へ柄の悪い客が来ませんでしたか」
用件をストレートに切り出した。マスターは眉ひとつ動かさず、グラスを磨き始める。
「さあ、どうでしょう。アルコールのせいで声が大きくなる方は時々おられますが」
マスターは柔和な笑みを浮かべる。さすがは水商売のプロだ。客の情報をおいそれと話す気はないようだ。
初老の男性客が席を立ち、会計を済ませて出ていく。つられるようにカップルも店を出る支度を始める。
「ありがとうございました」
シックな黒のドレスを着た女性スタッフが扉を開けて見送りをしている。小柄で細身のシルエットは店の雰囲気をエレガントに引き立てており、上品な仕草が板についている。
扉を静かに閉め、カウンターに入って仕込みを始めた。
女の横顔を見て、高谷はグラスに視線を落とす。五十手前にしては若く見えるが、間違いない。この店で働いていると大塚から聞いていた。こんなにあっさり会えるなんて。
高谷は肩を竦めて自嘲する。
「寺岡組の連中がここに来ていたはずだ、話を聞きたいんだけど」
高谷は女に声をかける。極道の名を聞いて動揺する様子はない。
「お客様の詳しい身上は存じ上げておりません」
女は愛想の良い作り笑顔を浮かべて高谷と目線を合わせた。瞬間、ぱっちりとした目を見開き、鮮やかなワインレッドの紅をのせた形の良い唇をきつく引き結ぶ。
「まさか……結紀、なの」
女の声は微かに震えていた。高谷は女の目を見据えたまま小さく頷いた。
***
「火、貸してくれ」
榊はシャドウストライプのスーツに白いシャツ姿でスプリングのへたったソファーに腰掛け脚を組んでいる。
部屋の端のスチール製のテーブルで雑誌を読んでいた
「お前が行けよ」
「なんで俺が」
長友と玉木は声を潜めて小突き合う。
榊原組組長の縁者を拉致、監禁して脅迫する。二人はその見張りを任された寺岡組の下っ端だ。榊原の実子だという男は囚われの状況にも関わらず、鋭い眼光に威圧的な態度を崩さない。一体、どちらが人質なのかわからない。
「つ、使ってくだ......使えよ」
玉木が胸ポケットから取り出した安物のジッポをテーブルに置く。
「灰皿あるか」
榊に言われ、長友は慌てて溜まったシケモクをゴミ箱に捨てて、ステンレスの灰皿を差し出した。
「ありがとな」
榊はフィリップ・モリスに火を点ける。その仕草はチンピラ風情から脱却できない二人を萎縮させるには充分だった。
榊は堅気だと聞いていたが、かつては若頭を務めていたという。あの目つき、一体何人人を殺して来たのか。兄貴分に榊を見張れと命じられ、長友は貧乏くじを引いたと嘆いた。玉木は榊と対面したとき、射抜くような鋭い眼光に背筋が凍りつく感覚を覚えている。
榊は紫煙をくゆらせながら室内を見回す。
自分の腰掛けている古いソファに、事務用のスチール机、床には安っぽい絨毯が敷かれている。ニコチンが染みついた壁は薄汚れて剥がれかけている。潮の匂いが強い。海沿いの廃ビルだろうか、しかし窓が無いことが気にかかる。
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