第8話
ホイールローダーはそのまま突進してクラウンに突っ込んだ。
「うおおお、何しやがるっ俺の愛車だぞ」
佐川が頭を抱えて絶叫する。ホイールローダーはバケットをクラウンのフロントに引っかけ、一気に持ち上げる。クラウンは横転し、コンクリートの床に激突した。ガラスの破片が派手に飛び散る。
「香月さん、ロープを解いたよ。逃げよう」
何事かと目を見開いていた香月の耳元で柄シャツの男が囁く。聞き覚えのある優しい声音にはっと振り向けば、半グレに扮した伊織だ。
ホイールローダーはバケットを持ち上げ、クラウンをめりめりと押さえつけ追い打ちをかける。
「くそっ、まだローンが残ってるってのに」
愛車を見るも無惨に廃車にされ、佐川が怒り狂う。
「おい、女が逃げるぞ」
中津が指差す方を見れば、ロープを解かれた香月が立ち上がるところだ。ソフトモヒカンが金属バットを振り上げて走り出す。
「何してやがるてめぇ」
「うわああっ」
伊織はパイプ椅子を持ち上げて応戦する。ソフトモヒカンは金属バットを何度も振り下ろす。
「ぶっ殺してやるぁ」
「香月さん、逃げて」
伊織は必死でパイプ椅子で攻撃を防ぐ。ソフトモヒカンは笑いながらバットを振る。
「おい、貴様」
背後で声がしてソフトモヒカンが振り向けば、黒ずくめの細身で長身の男が立っている。吸い込まれそうな暗い瞳にソフトモヒカンは背筋が粟立つのを感じた。
「え、瑛さん」
「何だてめえ」
ソフトモヒカンは男に標的を変え、金属バットをスイングする。曹瑛は振り切ったところでバットを掴み、回転させる。その力に振り回され、ソフトモヒカンは無様に転倒する。
「ぎゃっ」
曹瑛が容赦無く脳天に金属バットを振り下ろした。額から血を流し、ソフトモヒカンはその場に崩れ落ちた。
「瑛さん、助かったよ。行こう香月さん」
伊織は呆然とする香月の手を引いて工場の外へ走る。曹瑛は金属バットを放り出し、背中から赤い柄巻のバヨネットを取り出す。
ホイールローダーが黒のワンボックスに突進する。
「だ、誰かあいつを止めろ」
怒り心頭の中津がワンボックスに向かって走り出す。半グレたちも雄叫びを上げてホイールローダーに向かっていく。ホイールローダーは黒のワンボックスを持ち上げ、半グレたちの方へ転がした。
「あ、危ねえっ、うわああっ」
半グレどもは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「なかなか腕がいい」
腕組みをしながら騒動を見守る榊はもう出番は無いとばかり、デュポンでフィリップモリスに火を点ける。
「孫景さん、本当に何でも運転できるんだね」
高谷も重機の機敏な動きに感心している。
ホイールローダーは二台目のワンボックスに突っ込み、そのまま壁に押しつけて圧壊させた。
「てめぇ、調子に乗ってんじゃねえぞ」
愛車をスクラップにされた佐川が額に血管を浮き上がらせ、ベルトに挟んだ拳銃を取り出す。半グレ共を追い回して暴れ回るホイールローダーの運転席に飛びついた。
「き、貴様はあのときの」
運転席に乗り込んでいたのは、香月の部屋にいた大柄な男だ。佐川は中華調味料の屈辱を思い出し、拳銃を向ける。孫景は瞬時に銃を持つ手を弾く。放たれた銃弾がホイールローダーの窓ガラスを貫通する。
「外道に情けは無用だな」
孫景は堅く拳を握り締め、佐川の顔面に思い切り放った。佐川は盛大な鼻血を吹いて吹っ飛び、壁に激突して気絶した。
孫景が降り立つと、曹瑛と榊が暴れたらしく、十二人の半グレどもが全滅して床に突っ伏していた。
「兄貴、助けにきてくれてありがとう」
香月は緊張が解けたのか涙ぐむ。
「お前のおかげでこいつらを一網打尽にできた。よく頑張ったな」
孫景は勇気ある妹を労う。その表情は安堵と少しの困惑がない交ぜになっていた。
「じゃあ、仕上げだね」
高谷がポケットからハードディスクドライブを取り出した。伊織はロープをしならせる。
***
匿名の通報で駆け付けた警察官が見つけたのは見るも無惨に破壊された三台の車と、ホイールローダーに括り付けられた伊原組の二人と半グレたちだった。佐川は拳銃を所持していたため現行犯逮捕、中津のポケットに入っていたハードディスクドライブから江戸川医学研究所付属病院のランサムウェア事件と福永が主導していた治験に関わりのあるデータが発見された。
「乾杯」
掲げられたグラスが涼やかな音で鳴る。烏鵲堂の隣にある中華料理店百花繚乱でお疲れ会が開かれていた。皆が青島ビールの中、下戸である曹瑛のジョッキの中身は烏龍茶だ。
料理は孫家の故郷である江南地方の大皿料理が並ぶ。アヒルの血と春雨スープの鴨血粉絲湯、豚肉の煮付け
「東坡肉は北宋の詩人蘇軾が考案したと伝えられている。杭州に左遷された蘇軾が豚肉と紹興酒を使って作った料理だ。料理の名は蘇東坡に由来する」
曹瑛は烏龍茶を片手に東坡肉に箸を伸ばす。榊は酒のアテに塩水鴨が気に入ったようだ。
「医局にも立ち入り調査が入って大変。福永先生は重要参考人で呼ばれているわ」
福永にUSBメモリを返しに行ったとき、これ以上の悪事を働かないで欲しいと願ったがさらに事態を悪化させてしまったことを香月は気に病んでいる。
「機会を与えたのにそれを棒に振ったのは奴らだ」
孫景は香月を励ます。医師という男社会の中で生き抜くために勝ち気に振る舞っているが、繊細なところもあることを知っている。
「それにランサムウェアのロックが解除できて、診療体勢が元に戻りつつあるのは患者さんも助かってるよ」
高谷がネットニュースを示す。ランサムウェアが自作自演だったことが判明し、早急に復旧の目処が立ちそうだと報じていた。
「伊織さんの柄シャツ姿は似合ってたね」
香月が伊織の派手なシャツを思い出して笑う。
「あれは今回の作戦のために友達に借りたんだよ。俺の私物じゃないですからね」
伊織は真顔で念押ししておく。チンピラに扮装できる派手なシャツを借りるなら郭皓淳だ。今回も期待を上回るトンデモデザインで榊には腹を抱えて笑われた。
「でも、誘拐される危険もあるのに、香月さんは勇気がありますよ」
「うん。兄貴なら絶対助けてくれるって自信があったからね。それに兄貴も曲がったことが嫌いなんだ」
香月は榊から白酒の返杯を受けて豪快に飲み干す孫景を見つめる。
「その台詞、どこかで聞いたことがあるよ」
伊織も孫景を見て頷いた。
香月は江戸川医学研究所付属病院での留学期間を無事終えて、上海に帰っていった。権威を振りかざしていた福永部長がいなくなったことで随分風通しが良くなり、上海に戻ってからも医局の元同僚との交流は続いているという。
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