エピソード7 スペシャル・ハロウィンナイト

第1話

 陽が落ちた神保町すずらん通りに街灯が光り始める。閉店後の烏鵲堂で榊英臣はノートパソコンを広げて自身がオーナーを務める銀座の画廊アートギャラリーすばるの展示会企画に目を通している。

 ビデオチャットのコール音が鳴り、その瞬間榊の眉間に深い皺が刻まれる。正面に座る高谷はその相手が誰かを察して上目遣いで兄の様子を探る。


「祁門紅茶だ、ビデオチャットなら他所でやってくれ」

 テーブルに茶を運んできた曹瑛が冷ややかに言い放つ。安徽省祁門で採れる祁門紅茶は秋らしい深みのある赤色で、蘭の香りと微かにスモーキーな風味が特徴だ。

 曹瑛も榊の緊張からチャット相手を把握したようだ。榊は憂いを含んだ瞳で曹瑛を見上げる。曹瑛はふんと鼻を鳴らして厨房に戻ってゆく。チャットの相手は予測通り、ライアン・ハンターと表示されていた。


 ライアンはニューヨークに本部を置くコンサルタント会社グローバルフォースのCEOだ。急成長を続ける優良企業であり、やり手のライアンの手腕に拠るところが大きい。グローバルフォース社は東京に日本支社を置き、日本とのビジネスにも熱心に取り組んでいる。

 ライアンは同性愛者であることを公言しておりセレブとの華やかな噂も多い男だが、榊に一目惚れしてからは榊本人の意思はさておき一途に追いかけている。アイルランド系アメリカンマフィア、ハンターファミリーの二代目という裏の顔を持つライアンは同じ境遇の榊にただならぬ興味を抱いている。

 ライアンの持ちかける商談は常に優良案件だ。利益率だけでなく社会的にも価値が高く、やりがいがある。榊も無碍に断れずにビジネスパートナーとしての関係が続いている。


 榊は意を決して通話ボタンをクリックする。いつも高層階のオフィスでガラス越しの摩天楼をバックに新調したスーツを見せびらかしたり、自宅マンションでガウン姿で年代もののワインを揺らすセレブな私生活をアピールする映像を送り込んでくるが、今日は珍しく画面は真っ暗だ。

「やあ、英臣。この時間ならゆっくり話ができると思ってね」

「今立て込んでいる。用件は手短に頼む」

 榊はすかさずライアンを牽制する。メールで済む用事を顔が見たい声が聴きたいと何かと理由をつけてビデオチャットで連絡を取ってくるのが常なのだ。勝手に見た少女漫画のような夢の話が始まると止めることが困難だ。一方的に募る想いを語られるのが面倒で榊は処し方に苦労している。


「箱根の洋館ホテルのオープンが決まったよ。夏に一緒に手掛けた案件だ。内覧会としてゲストを招いてパーティをするんだ。君たちにもぜひ来て欲しい」

 箱根の山奥に建つ大正時代の古い洋館をリノベーションし、ホテルとしてオープンするプロジェクトだ。榊はレストランのプロデュースを担当した。建築家の新堂武郎が設計し、近代洋風建築として保存する価値がある建物だ。榊も完成を心待ちにしていた。

「それで、内覧会はいつだ」

「今週の土曜日だよ」

 気のせいか、ライアンの声が近い。


「サプライズを仕掛けようと思ってね」

 階段を上がる足音に、曹瑛がいち早く反応した。榊も目を見開き、画面から顔を上げる。

「えっ、ライアン」

 伊織が叫ぶ。仕立ての良いライトグレーのスーツを着たライアン・ハンターが柔和な笑みを浮かべて立っている。

「伊織も結紀も元気そうだ、会えて嬉しいよ」

「来るならそうと言ってよ」

 高谷は鋭い視線でライアンを見上げる。兄は渡さない、と訴えている。挑戦的な眼差しにライアンは不適な笑みを浮かべる。

「英臣、会いたかったよ」

 ライアンが諸手を広げて榊に向き直る。榊は厨房に逃げ込もうとして、それを断固阻止して立ち塞がる曹瑛と揉み合いになっていた。


***


 土曜日は清々しい秋晴れで、陽が陰り始めると温度がぐっと下がり終わる秋を感じさせる。榊のBMWで箱根山中に建つ洋館「古狼館ころうかん」を目指す。ライアンの案内状によれば午後六時集合でパーティは七時から、夜はホテルの部屋を取ってあるという。

「酒が飲めるのはありがたい」

 ハンドルを握る榊は上機嫌だ。いや、から元気なのかもしれない。

「この時期にパーティっていつも碌な目に遭わないよね」

 助手席の高谷がぼやく。榊はハンドルを両手で握り、動揺を押し隠す。


「俺は着替えない」

 後部座席に身を預けて脚を組む曹瑛は危険を予知しているのか、無表情で夕闇に染まる窓の外を見つめている。始めは参加を渋っていた曹瑛だが、案内状に記載されていた横浜の有名パティシエがプロデュースしたハロウィンテーマのスイーツビュッフェにまんまと釣られてついてきたのだった。

「古狼館って面白い名前だね」

 その隣に座る伊織は古い洋館に興味があるらしく、案内状に書かれている歴史を読み込んでいる。

「オーナーのじいさんが寒い冬の日に狼を見たことに由来するらしい」

 ホテルのロゴはニホンオオカミの横顔をあしらっていると榊が説明する。


 白樺の森を抜けて狼のロゴの看板がぶら下がるレトロな街灯を目印に坂道を登ってゆく。森が開けて古狼館の灯りが見えてきた。駐車場にBMWを停め、大理石の狼が立つ噴水のある英国庭園を通り抜ける。

 古狼館は風見鶏のついた灰色の三角屋根の中央棟と左右にシンメトリーに伸びる客室棟からなる。煉瓦造りの壁にアーチ状の白い窓枠が並び、重厚かつ洗練された雰囲気を醸し出している。観音開きの玄関ドアの上に洋風のランタンが灯り、優しい光が客を出迎える。


「森の中の隠れ家みたいなホテルだ」

 伊織は古狼館を見上げ、雰囲気に圧倒されている。幾何学紋様のステンドグラスの嵌め込まれた玄関ドアを開けると、館内は照明を落としてあり、かぼちゃをくり抜いた中に蝋燭を立てたランプが並ぶ。

「ようこそ、古狼館ハロウィンナイトへ」

 恭しく頭を下げたのは十八世紀ヨーロッパ調ドレスシャツに三連ベルトの革製ベスト、スリムパンツにロングブーツ、裏地が赤色のマントを羽織ったライアンだ。前髪をオールバックにしてぴたりと撫で付けた姿はドラキュラ伯爵を彷彿とさせる。


「招待は感謝するが、頓狂な仮装大会に付き合うつもりはない」

 榊は毅然とした態度でライアンと対峙する。曹瑛は腕組みをして断固拒否の意思表示をしている。

「それは野暮というものだよ。パーティ会場は仮装したゲストで盛り上がっている。今回の趣向はきっと気にいる。さあ、こちらへ」

 ライアンはゲストルームの扉を開けて手招きをする。今日のパーティは仮装が正装なのだと言われ、榊は踵を返そうとした曹瑛の腕をがっしりと掴んだ。

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