第3話

 ガヴィアルは地下鉄神保町駅を出てすぐ、交差点の一角にある。欧風カレーの専門店で、1982年の創業以来の継ぎ足しソースをベースに28種類の香辛料を使っている。

 店内は昔ながらの喫茶店の佇まいで、温かみのあるライティングで落ち着いた雰囲気を演出している。


 カレーはグレイビーボートに、ライスは別皿で提供される。小皿に茹でたじゃがいもが二つついてくる。

「神保町のカレー屋はじゃがいもを分けて出すのが定番だね」

 伊織は別の店でもじゃがいもが小皿に出てきたことを思い出す。家でカレーを作るときにじゃがいもを別にするという発想は無かった。


「じゃがいもを前菜と考えての出し方だという説がある。それにじゃがいもをカレールウに入れると余分な水分が出てしまうからとも聞く」

 榊は神保町の有名カレー店は一通り食べ歩いたらしく、やたら詳しい。

「学生が多い街だからじゃがいもでお腹いっぱいになって欲しいって心遣いがあるんだって」

 カレーに入れる派もいるそうだが、高谷はあつあつのうちにバターをつけてじゃがバターとして食べるのが好きだという。


 こだわり抜かれたカレーには深いコクがあり、じっくり煮込まれた肉はほろほろで口に入れると舌の上でとろけるようだ。シンプルなようで奥が深く、ふとまた食べたくなる味だ。


「しかしあの男、気になるな」

 榊は福神漬けを添えながら呟く。

「うん、瑛さんも動揺してたと思う。普段たい焼きを背中から食べるのに、今日はしっぽからいってたよ」

 伊織は深刻な顔でカレーにらっきょうを盛る。

「二十年前に死んだと思った命の恩人が突然目の前に現れたら驚くよね」

 高谷はじゃがいもをかじりながら神妙な表情を浮かべる。


「実はさ」

 高谷が顔を上げる。竜二と曹瑛がカフェスペースで立ち話をしているのを聞いたという。

「曹瑛を狙う暗殺者だと」

 榊は目を見開く。伊織も絶句している。

「うん、曹瑛さんはあの時何も言わなかったけど」

 高谷は目を伏せて俯く。仲間を危険に晒さないためだ。曹瑛は一人でかたをつけるつもりなのだ。


「竜二さんはそれを教えるためにわざわざ瑛さんの前に現れたんだ」

 不穏な空気がさらに強くなった気がして、伊織は青ざめる。

「引っかかるな。過去の命の恩人が突然現れて暗殺者の存在を知らせるとは」

 榊は裏の情報網で鳴海竜二を調べることにした。


「今日は車だ、品川まで送るぞ」

 ガヴィアルを出て地下鉄へ向かおうとした伊織を榊が引き留める。

「助かるよ」

 榊の自宅は品川、伊織は蒲田に住んでいる。品川駅から京浜東北線に乗れば早い。

 高谷は練馬の学生アパートに住んでいるが、今日は榊のマンションに転がり込んで飲むらしい。


 車を停めているコインパーキングへ向かう。裏路地にあって道は狭いが、穴場なので停めやすい。烏鵲堂に車で立ち寄るときは榊はいつもここを利用している。

 榊の車は黒のBMWだ。ハイスペックのセダンで、現行タイプではないがフロントのデザインが気に入っている。


 コインパーキングの敷地内に人影があった。黒いジャージの上下の男が三人、BMWの周囲を徘徊している。

 一人はバールを持っており、どう見ても不穏な気配だ。

「車上荒らしだ」

 伊織は思わず叫びそうになる声を押し殺す。

 榊と伊織、高谷はブロック塀の影に身を潜め、様子を伺う。


 男がバールを使い、ロック板を破壊した。料金を払えば下がるものを壊すとは、伊織は憤慨する。もう一人が手元の機械を使い、何やら操作している。


 BMWのロックがあっさり開いた。

「えっ、なんで」

 伊織が驚いて目を見開く。

「リレーアタックだ、今流行りの車両強盗の手口だよ」

 高谷は状況を冷静に観察している。スマートキーが発する微弱な電波を盗み取ってコピーし、不正開錠するという最新手口だ。狙った車を傷つけることなく入手できる。


「ぐぎゃっ」

 男がドアに手をかけようとしたその時、榊の蹴りが飛んだ。男は派手に吹っ飛び、ブロック塀に激突する。

「悪いな、現行犯だ」

 榊は口角を釣り上げる。

「てめぇ、何モンだ」

「車のオーナーだよ」

 躊躇いもなくバールで殴りかかってきた男に、榊はカウンターで顔面に拳をめり込ませる。バール男は鼻血を吹きながらアスファルトに転がった。


「クソっ、邪魔するんじゃねぇ」

 残る一人がジャックナイフを取り出した。ナイフを振り回しながら榊に向かって突っ込んでくる。榊は重心を落として正中をずらした構えを取る。

「榊さんっ」

 高谷が叫ぶ。

「この野郎っ」

 伊織が赤色の三角コーンをナイフ男の頭に振り下ろした。


 ボコっと間抜けな音がして、ナイフ男が怒りの形相で伊織を振り返る。

「ひえっ」

 伊織は怯えて後退る。ナイフ男は伊織をターゲットに変えてナイフを振り上げた。伊織は三角コーンを投げつける。

「ふざけんなっ」

 激昂した男がナイフを突き出した。刺される、伊織は恐怖に顔を歪める。


 ナイフが振り下ろされた瞬間、金属がぶつかる甲高い音が響いた。

「なんだお前」

 凶刃を防いだのは黒光りする軍用ナイフ、バヨネットだ。

「瑛さん」

 黒のジャケットにグレーのシャツ、ショートブーツ姿の曹瑛だ。


「くそっ」

 ナイフ男は曹瑛に襲いかかる。曹瑛はバヨネットで切先を軽々と弾き飛ばす。

 ナイフ男の動きは全て読まれていた。曹瑛は無駄のない動作で子供をあしらうように男のナイフ攻撃をさばいていく。

「この車は諦める、行くぞ」

 隙を見て仲間たちが走り出す。


「おい、置いてくなよ」

 二人の仲間が自分を見捨てて逃げ出したのを見て、ナイフ男は慌てて後を追う。

「くそっ、やりやがった」

 榊が忌々しげに吐き捨てる。BMWの後輪のタイヤがパンクしている。

「車を盗めなかった腹いせか、なんて奴らだ」

 伊織も身勝手な男たちに怒りを覚え、拳を握りしめる。


「奴ら、かなり手慣れているよ。きっと他にも被害者がいるはずだ。これで何かわかるかも」

 高谷は画面にヒビが入ったスマートフォンを手にしている。

「奴らの置き土産だな、ロック解除できるか」

「やってみる」

 榊の問いに高谷はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

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