第2話

「あの男、同業者か」

 竜二と入れ違いに階段を登ってきたのは榊英臣さかきひでおみだ。

 オーダーメイドの黒のシャドウストライプのスーツを着こなし、ダークグレーのシャツに濃紺のタイ。縁無し眼鏡の奥の射抜くような鋭い眼光はとてもカタギには見えない。


「お前には関係ない」

 曹瑛は振り向きもせず茶器を片付け始める。

「そうか」

 曹瑛は普段から無愛想だが、冷静を装う態度に微かな気の乱れを感じた。榊は無言のまま曹瑛を見やる。曹瑛はそれを気取られたくないのか、茶盤を持って足早に厨房へ引っ込んでいく。


 階段下であの男とすれ違ったとき、裏社会に生きるものの匂いを感じた。修羅場をくぐったものの匂いだ。

 歳の頃50代半ば、やつれた目元に削げた頬が妙に迫力があった。夕闇の中で光る眼光に、同じ世界を生きていたと直感した。


 榊もかつては関東鳳凰会柳沢組で若頭を張っていた。浅慮な組長がドラッグの取り引きに手を出したことから破滅を招き、柳沢組は解散することになった。

 現在は倒産整理で手に入れた都内のバーや画廊の経営、コンサルタント業で個人実業家として多忙な日々を送っている。


 榊は窓際の定位置の席に座り、足を組む。曹瑛がグラスに茶葉を入れ、湯を注いでテーブルに置く。曹瑛は閉店後にぶらりと立ち寄る気心の知れた仲間にももてなしを忘れない。


「茶を飲みにきたようには見えなかったぞ」

 榊は曹瑛を見上げ、目を細める。

「関係ないと言ったはずだ」

 曹瑛は苛立ちを滲ませて言い放ち、あからさまに不機嫌な顔になる。

「歓迎しない客か」

「ただの古い知り合いだ」

 これ以上詮索するな、と曹瑛は榊を冷たい視線で見下ろす。榊と曹瑛は睨み合い、どちらも譲らない。


 階段をバタバタと駆け上る足音が聞こえてきた。途中蹴躓いたらしく、うわっと叫び声が差し込まれる。

「神田だるまの前を通りかかったら焼きたてだって、たい焼き買ってきたよ」

 息を切らせながらほかほかの紙袋を掲げているのは宮野伊織みやのいおりだ。


「あんことクリーム、チョコレート、どれが良い」

 伊織が紙袋を開けるとたい焼きの香ばしい匂いがふわりと香る。そこで曹瑛と榊がギラギラした殺気を放つほどに睨み合っていることに初めて気がついて、ヒッと息を呑む。


 この二人、また張り合っている。伊織は口を噤んで曹瑛と榊を見比べる。元暗殺者と元極道で妙に気が合うのか、コミュニケーションの方法が大人気ない張り合いなのだ。

 いつもどちらからともなく始まるしょうもない意地の張り合いは、何も知らない人間からしたら殺し合いでも始まるのかという険悪さに驚くが、本人たちはこの緊張感を楽しんでいる節がある。


 伊織はどう見ても無害な一般人であり、見た目のそのままの男だ。お人好しで何かと割を食うことが多いが、意外と物怖じせず芯の強い一面がある。

 裏社会を生きていた曹瑛や榊と奇妙な縁で出会い、曹瑛の人生を取り戻す戦いに付き合う羽目になった。今でも彼らとは良き友人だ。

 都内の広告代理店を人員整理のために事実上クビになり、今は日本と中国の架け橋を謳う雑誌社青華書房に勤務する。


「今それどころじゃないね」

 伊織が気まずそうにたい焼きを引っ込めようとしたとき、曹瑛が素早く手首を掴んだ。

「あんこだ」

 揺るぎない意志を感じる低音ボイスだ。

「俺はカスタードをもらう」

 榊も曹瑛から視線を外さずにちゃっかりリクエストを出す。


「今日の書店の売り上げだよ。あ、またやってる」

 睨み合う二人を見て呆れて肩をすくめたのは、高谷結紀たかやゆうきだ。都内の大学三回生で情報工学を学んでいる。

 小柄で細身、目鼻立ちが整った愛嬌ある顔立ちをしている。


 榊の腹違いの弟で、父親は神奈川県を支配下に置く榊原組の組長だ。一代で組を築き上げた気骨のある男で、長子の榊が親の基盤を継ぐことを拒んだことから東京で暮らす高谷を母の元から引き取った。

 高谷七歳のときだ。当時高校生だった榊との出会いは孤独な少年の心を強く揺さぶった。榊は初めて出会った唯一心を許せる人間だった。

 それから兄に恋慕にも似た複雑な想いを胸に抱くようになる。


 高谷は烏鵲堂の書店にアルバイトに入っており、店内のディスプレイや輸入書籍の注文など、曹瑛から一通り任せられている。

 システムに強い高谷は劉玲と協力して書籍の注文サイトを構築した。幅広い取り寄せルートとスピーディな納期を実現しており、顧客に喜ばれている。

 

「鳴海竜二、フリーの暗殺者だ。奴について三ヶ月ほどターゲットを追ったことがある。俺が十六のときのことだ」

 たい焼きを頬張りながら気分が紛れたのか、曹瑛は語り始めた。

「正体が一切不明な危険な相手だった。最後まで追い詰めたが、任務は失敗に終わった。そのとき奴は死んだ。俺は命を救われた」

 鮮明に脳裏に浮かぶ竜二の最期に、曹瑛は眉根を顰める。


「今日ここにやってきたのは過去の亡霊か」

 榊は腕組みをして曹瑛を見やる。曹瑛が過去を語るのは珍しい。今日は饒舌にすら思える。

「二十年近く前の話だろ、今頃瑛さんに会いにくるなんて、余程の理由があったんじゃないの」

 伊織の言葉に曹瑛は押し黙る。自分を狙う暗殺者がいる、と忠告をしにきたのだ。曹瑛はそれを仲間たちに話すつもりはなかった。


***


 神保町ガヴィアルのカレーを食べに行こうと榊が提案したが、曹瑛は明日の仕込みがあることを理由に断った。

 仕込みは口実だと榊には分かっている。伊織と高谷も察したようだ。無理に誘うのは野暮というものだろう。

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