エピソード1 烏鵲堂の意外な客人

第1話

 地下鉄神保町駅を出てすずらん通りを歩けば、古書店や老舗飲食店が軒を連ねている。東京神田の神保町は「本の街」として知られている。古書店や新刊書店、出版社が集まり、美術や地図、歴史など専門特化したマニアックな書籍を扱う本屋が多いのも特徴で、その道の愛好家が集う。


 中国書籍専門書店 烏鵲堂うじゃくどうはすずらん通りの中程に位置する。中国の歴史、文化、ノンフィクション、小説や画集など、品揃えは豊富だ。

 原書も扱っており、本土からの取り寄せルートを持つ。専門書から流行りのサブカルチャーまで、中国書籍を探そうと思えば烏鵲堂に立ち寄ると良いと近隣書店のお墨付きだ。


 入り口右手の階段を上ると、二階がカフェスペースになっている。天井から下がる木製ランタンのダウンライトの灯りが店内を温かく照らす。机や椅子、飾り棚、格子窓は本場から輸入した品を使っており、中国のレトロな茶館を彷彿とさせる。


 カフェでは店主の曹瑛そうえいが本格的な中国茶を淹れてくれる。細身の長身で色白の肌に鼻筋の通った整った顔立ち、切れ長の澄んだ瞳は夜の湖に映る月のような静謐な光を湛えている。

 シックな黒い長袍に身を包み、優雅で流麗な茶芸を披露する曹瑛の姿を目当てにやってくる客も多い。


 客にも中国茶の楽しみを体験してもらいたいと、テーブルには茶器一式を盆に載せて出す。茶葉の種類により、茶器の種類を選定している。曹瑛は茶葉の特徴を説明し、淹れ方を教える。二煎目から自分で湯を足して茶芸を体験することができるのが人気だ。


 杏仁豆腐に月餅、桃饅頭、開口笑、ごま団子。本場の中国スイーツもすべて手作りで出している。

 本格的な中国茶と茶菓子を手軽に楽しめて、豊富な中国書籍を読みながらゆったりとした時間を過ごすことができる。口コミも高評価で、週末と言わず平日も盛況だ。


 今は人気カフェのオーナーを務める曹瑛だが、中国東北地方の組織「八虎連」所属のプロの暗殺者という過去を持つ。

 幼少の頃、故郷ハルビンの寒村で誘拐され組織の暗殺者になるべく過酷な訓練を仕込まれた。暗殺の腕は超一流、現場の血腥い惨状から「東方の紅い虎」の異名を持つ。

 組織のやり方に疑問を持ち、人の命を奪うことをやめると誓った。人生を取り戻すために仲間とともに組織に戦いを挑み、苦闘の末に平穏な日常を手に入れた。

 慣れない客商売にぶっきらぼうな態度になりがちだが、それでも飾らない態度が好きだという常連客が多い。


 夕暮れの格子窓が板張りの床に幾何学紋様の影を落とす。

「素敵なお店でした。また来ますね」

 カフェスペースの最後の客が階段を降りて行く。閉店時間まであと少しだが、もう客は来ないだろう。明日の仕込みは営業時間中に済ませることができた。


 曹瑛は夕闇に染まる窓際の椅子に腰掛け、グラスに西湖龍井を淹れる。中国茶は複雑な茶芸で飲むばかりではない。グラスに茶葉を淹れ、湯を注ぐだけで十分に風味を楽しむことができる。


 茶葉は上海にいる兄の劉玲が仕入れを担当している。フットワークの軽い男で、自ら産地に買い付けに行って上質な茶葉を送ってくる。

 劉玲は幼少の頃に生き別れ、30年の長い年月を経て再会した。彼もまた裏社会で生きることを余儀なくされ、黒社会のトップ組織上海九龍会の上層幹部にまで成り上がり、今に至る。

 書籍も茶葉も、烏鵲堂の流通ルートを支えるのは劉玲だ。


 春摘み西湖龍井の柔らかな葉がグラスの中で揺れている。口に含めば爽やかな香りが鼻腔を抜ける。

 日中賑やかな店内が静寂に戻るこの時間が好きだった。孤独は心地良い。幼い頃から孤独と向き合ってきたからだ。


 階段を上ってくる足音が聞こえてきた。人の足音には独特のリズムがある。閉店後にここを溜まり場にする勝手知ったる仲間たちの足音とは違う。一歩一歩、踏みしめるような重い足音だ。曹瑛は茶を飲み干し、立ち上がった。


「もう閉店か」

 現われたのは癖のある黒髪に無精髭の男だった。ブルーグレーのブルゾンのポケットに両手を突っ込み、白いVネックシャツ、編み上げブーツを履いている。くっきりと濃い眉、心の奥まで見透かすような鋭い眼光を宿す瞳、口元には不敵な笑みを浮かべている。

 男の顔を捉えた瞬間、曹瑛の脊髄に電流が駆け巡った。まさか、そんなはずはない。曹瑛は唇を引き結んだまま目を見開く。


 男は立ちすくむ曹瑛の脇を通り過ぎ、窓際の椅子に座る。

「せっかく来たんだ、何か飲ませてくれ」

 男は曹瑛を見上げ、目を細めて口角を吊り上げる。特徴のある皮肉な笑い方も懐かしい。

 曹瑛は動揺を押し隠して何も答えず厨房へ向かい、茶器を用意し始めた。指が微かに震えて茶器がぶつかる。キン、と緊張感のある音がして我に返った。


 曹瑛は男の正面に座り、茶を淹れる。茶葉は南京雨花茶を選んだ。この時期が旬の緑茶だ。曹瑛はポットの湯を注ぎ、茶器を温める。

「見事なものだ。お前にこんな特技があったとはな」

「必要があって覚えた。だが、嫌いではない」

 曹瑛は茶を差し出す。澄んだ淡い緑の茶だ。爽やかな香りが立ち上る。

 

「生きていたのか、竜二さん」

 曹瑛は男の顔をまっすぐに見据える。その瞳には責めるような色が滲む。

「美味い」

 男はそれに答えず口元を綻ばせる。曹瑛は空になった白い器に茶を継ぎ足す。男は香りを楽しみながら茶を口に含む。


「ああ、地獄から追い払われたようだ」

 竜二と呼ばれた男はニヤリと笑う。曹瑛は微かに目を細める。

「お前は良い面構えになったな」

「あんたはやつれてみえる」

 曹瑛は自分の器にも茶を注ぎ、一口で飲み干した。


「お前を追って古巣八虎連から刺客が放たれた。気をつけろ」

 竜二は小皿に乗った小ぶりの月餅を見つけて指で摘んで口に放り込んだ。

「うん、これも美味い」

 お前が作ったのか、と竜二は驚いた顔で曹瑛を見やる。最後に五煎目の茶を飲み干して立ち上がる。


「久しぶりに顔を見られて良かった」

 竜二はそう言い残して手を振りながら階段を降りて行った。曹瑛は唇を固く引き結んだまま、その背中を見送った。



 

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