第10話

 目が覚めたのは昼間だった。世間は横浜港沖に停泊中のタンカーから銃やロケットランチャーなどの武器が大量に押収されたニュースで持ちきりだ。寺岡組は一次団体の麒麟会から破門になるだろう。


 高谷がアパートに帰り着いたのは夜明け前だった。シャワーを浴びたまま、どっと押し寄せてきた疲労感に任せてベッドに倒れ込んだ。兄を無事に救出したことに対する安堵に気が抜けたこともあった。

 朝起きて鏡を見ると目の下には濃いクマがくっきり、髪は失敗したパーマのごとくぐしゃぐしゃだった。

 今日の授業は午後からだ。午前中は祖母の見舞いに行くことにした。


 ***


 祖母は意識が戻り容態が安定したようで、一般病棟に移されていた。

 病室に顔を出すと、祖母はベッドに腰掛けてリハビリをしている最中だった。若い療法士に支えられ、ふらつきはするものの立ち上がることができた。リハビリは順調だと療法士は記録をつけて部屋を出て行く。

「ばあちゃん、具合はどう」

「まだ頭はぼうっとするけどね」

 感情の表出が乏しいのは後遺症のせいだけではないのかもしれない。孫の顔を見つめ、無理に笑顔を作ろうとしているように思えた。


 窓から差し込む柔らかな日差しがベッドサイドを照らす。高谷はパイプ椅子に腰掛け、みかんを剥いてやる。

「はい、ばあちゃん」

「結紀、可哀想なことをしたな」

 綺麗に剥かれたみかんを手にした祖母は涙ぐむ。高谷は手先が器用で、みかんの白い繊維をきれいに剥くのが上手かった。


「お前の母親が榊原にお前を引き渡そうとしたとき、止めることができなかったよ」

 それでも立派に育って、と言葉を詰まらせる。

「ばあちゃん、俺は榊原の家にもらわれて幸せだったよ」

 腹違いの兄英臣との出会いで、それまでモノクロームだった人生に鮮やかな色が差した。彼に出会わなければずっと卑屈に下を向いて、誰かの言いなりの人生だったかもしれない。


「お前の母が悩んだ末の決断だった。あの子は母親になるには未熟だった。私はそれ以上何も言えなかった」

 祖母は嗚咽する。

「ばあちゃん、あの時はそれで良かったんだ。こうしてまた元気に会えたよ」

 祖母は我が子を手放そうとした娘を止められなかったことに、ずっと自責の念を抱いていたのだ。

 でも、もういい。責めるつもりはない。


「本当に大きくなった、立派になったねえ」

「うん、今は大学三年生だよ。ね、みかん食べなよ」

 祖母は大事に握っていたみかんを一粒食べて、また涙を流した。


 ***


 烏鵲堂の一階書店の売上げを締めて二階のカフェスペースへ上がると、曹瑛が豪快な欠伸をしていた。しかし、顔は爽快そのもの、タンカーで存分に暴れてご機嫌のようだ。

「昨日は榊さんを助けてくれてありがとう」

 高谷は殊勝に頭を下げる。曹瑛の情報網や働きが無ければ救出は到底無理だった。

「俺からも礼を言う。これは俺の気持ちだ」

 先にテーブルについて茶を飲んでいた榊が、コートのポケットから白い封筒を取り出した。


「受け取らんぞ」

 曹瑛はふいと顔を背ける。

「まあ、そう言わずに開けてみろ」

 榊は曹瑛に封筒を手渡す。曹瑛は封筒の中身を確認し、無言のまま長袍の胸元にしまい込んだ。

「冬限定いちごのスイーツビュッフェのチケットだ」

 平日でも予約が取りづらいほど人気がある、と榊は得意げだ。なるほど、現金よりもその方が曹瑛には嬉しいだろう。


「へえ、二階はカフェなんですか」

「榊さんがプロデュースしてすごくセンスがいいですよ」

 伊織と榊原組若頭の大塚が和気あいあいとカフェへの階段を上ってきた。神保町駅で偶然出会ってここまで一緒に来たらしい。

「曹瑛さん、若のことでお世話になりました」

 大塚が深々と頭を下げる。コートの胸ポケットから厚みのある白封筒を取り出し、手渡そうとする。

「礼を言われる筋合いはない。俺は高谷の手助けをしたまで。それに、まんまと拉致された男の間抜け面を見たかった、それだけだ」

 曹瑛は頑として受け取らない。では、と大塚は紫色の風呂敷包みを差し出した。


「小田原の有名パティシエが作るフルーツタルトです。一日三十個限定で、自分が朝六時から並んで買ってきました」

 曹瑛が甘党だと入れ知恵する者がいたようだ。謝礼金は受け取らないとも。曹瑛は無言で風呂敷包みを受け取り、厨房の冷蔵庫にいそいそとタルトを入れている。

 大塚は榊原組長から曹瑛に謝礼を渡すよう命じられていた。義理が果たせてホッとしている。


「ぼっちゃんとご友人にも感謝していると、カシラから伝言です。小田原に来たときはぜひもてなしたいと」

 いくら榊や高谷の父とはいえ、極道の親分のもてなしを受けるのは遠慮したい。伊織は冷や汗を垂らしながら恐縮した。


 ***


 烏鵲堂の隣にある中華料理店「百花繚乱」で榊救出の打ち上げを終え、高谷と榊は六本木で飲み直すことにした。高谷は六本木の裏路地にあるバー「結」の扉を開く。

「良い店だな」

 落ち着いたダウンライトの店内には、オールディーズの女性シンガーの曲が流れている。高谷と榊はカウンターに座る。榊はブランデー、高谷はギムレットを注文する。

「私に作らせて」

 黒いドレスの女がグラスを手に取る。マスターは頷くと、別の客の対応にカウンターを離れた。


「母さんのおかげで兄さんを助けることができたよ。こちら俺の兄さん、英臣さん」

 高谷は母の真央に榊を紹介する。榊は丁寧に会釈する。

「結紀がお世話になっていると聞いています。ありがとうございます」

 真央は榊にブランデーを、高谷にギムレットを差し出す。

「ニュースを見たわ」

 タンカーの武器密輸事件から寺岡組はガサ入れに遭っている。これで寺岡組が榊原に抗争を仕掛けることはない。真央は内心ホッとしていた。


「外で一服してくるぜ」

 榊は席を立つ。高谷は真央と二人きり、互いに緊張の面持ちで向き合っている。

「ばあちゃんに会いに行ったよ」

 高谷が明るい声で切り出す。補助が必要だけど立ち上がれるようになって、みかんを食べたことを話した。

「ありがとう、私たちを見捨てないでくれて」

 真央は言い終わらぬうちに大粒の涙を零す。高谷は目の前の憐れな女を責める気にはなれなかった。


「俺たちは家族だろ」

「ええ、そう、そうよ。ごめんなさいね、母親らしいこと、何も」

「もういいって、俺、榊原の家でよくしてもらったよ。今は自力でなんとかやってるし」

 真央が取り乱す様子をマスターは心配そうに見守っている。状況を読んで口出しする気はないようだ。

「ありがとう、結紀。私たちは家族ね」

 真央は高谷の手を握り絞める。高谷は繊細で小さな手を握り返す。真央は細身の息子の手が意外と逞しいことに心強さを覚えた。


***


「十四年ぶりに母親と再会するときいて、心配していたが大丈夫のようだな」

 カウンターに戻った榊がブランデーを傾ける。高谷の晴れやかな表情に、無用な心配だったと自嘲する。

「うん、ありがとう兄さん」

「お前は頼りになる弟だ」

 榊は高谷の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「やめてよ、俺もう子供じゃないんだ」

 そう言いながらも高谷ははにかんでみせた。


 ――ギムレット 遠い人を想う

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