第9話

 榊はコンテナの隙間を縫って走る。

 銃口を向けた男は確か、寺岡組の若頭補佐、諸岡もろおかだ。寺岡組の悪評は以前から耳に入っていた。無能な若頭を傀儡にする卑劣漢がいると。薄い眉に三白眼、歪んだ鼻筋、片方の口角をアンバランスに引き攣らせた笑み。噂通りの悪人顔だ。


「榊原のぼっちゃんよ、どこへ行くんだ」

 薄笑いを浮かべ、諸岡は榊を追う。榊原組は神奈川県西部を勢力下に治める巨大な組織だ。頭数だけではない、組長の榊原への忠誠心は一枚岩だ。そんな旨味のある組織を継ぐことなく、新宿の弱小組織の若頭に甘んじた男、榊英臣。

 榊の無頼を気取った生き様が許せなかった。自分は若頭補佐にのし上がるまでどんな汚い手も使ってきた。


 榊原が邪魔をしなければ、牛頭会と手を結び、奴らを関東に引き入れることができる。日本の組織は中国黒社会に食われるだろう。まさにそれが狙いだった。

 榊原が大人しくホテル買収から手を引くか、面子を通して我が子を犠牲にするか、どちらにしても諸岡にとっては美味い話だ。


 コンテナの角を曲がったところで、寺岡組のチンピラが立ちはだかる。

「へへ、ここからは逃げられねえぜ」

 赤い柄シャツがジャックナイフを突きつける。無精髭は拳にメリケンサックを装着してシャドウボクシングで威嚇する。

「こっちは丸腰だってのに、容赦なしか」

 榊はコンテナを背にしてスーツの上着を脱ぎ捨てる。シャツの袖を捲り、構えを取る。


 柄シャツが榊の脇腹を狙い、ナイフで斬りつける。同時に無精髭がメリケンサックで榊の顔面を狙う。榊は重心を下げ、拳をかわす。勢い付いた拳はコンテナを撃ち、分厚い壁がめり込んだ。

 間髪入れず、ナイフの切っ先が榊の胸元を掠る。白いシャツが裂け、血がじわりと滲む。

「おい、殺すなって言われてなかったか」

 無精髭が下品な笑みを漏らす。

「そうだっけか、どうせ魚の餌になるんだ、切り刻んだ方が食いやすいだろ」

 柄シャツは甲高い笑い声を上げながらナイフを突き出す。


 榊はギリギリのところで体幹をずらし、切っ先をかわした。勢い余って踏み込んだ柄シャツの横っ面に拳を叩きつける。柄シャツは吹っ飛び、コンテナにぶつかって咳き込んでいる。

「アホみたいに急所ばかり狙いやがる、それじゃ軌道が読まれるぜ」

 榊はしゃがみこんだ柄シャツの頭に踵落としを食らわせた。柄シャツは目を回してその場に力尽きた。

「クソったれが」

 榊は怒りに任せて放たれたメリケンサックをすり抜け、無精髭の顎に強烈なアッパーを突き上げる。


 顎に一撃を食らい、無精髭は平衡感覚を失ってよろめく。隙だらけの鳩尾を狙い、渾身のボディーブローをめり込ませた。

「踏んだ場数の違いだ」

「ぐふっ」

 無精髭は吐瀉物を吐き出し、膝から崩れ落ちた。

 コンテナに火花が散る。

「往生際の悪い奴だ」

 諸岡が躊躇いもせず自動小銃の引き金を引く。榊はコンテナの影に転がり込み、体勢を立て直すと走り出した。


 正面は海、今夜は月も雲隠れしている。飛び込めば何とか逃げられるかもしれない。

「このクソ寒いのに水泳かよ」

 榊は舌打ちをする。コンテナ埠頭には明かりが灯っている。方向を見失うことはない。コンテナの通路を抜けたところに、詰襟の男たちが立ちはだかる。

「お前は取引のカードだ、逃がさん」

 鈍い光を放つ青竜刀を喉元に突きつける。五人の詰襟に取り囲まれ、榊は観念して両手を挙げる。


「面倒かけやがって」

 追いついた諸岡が苛立ち紛れに銃把で榊を殴りつけた。唇の端が切れ、鮮血が流れ落ちる。

「榊原から連絡はないのか」

 細目の詰襟がカタコトの日本語で諸岡に詰め寄る。

「ああ、今日正午がデッドラインだ」

 諸岡はタバコに火を点ける。細目は榊の目の前に青竜刀を突き出す。榊は唇を引き絞り、細目を鋭い眼光で射貫く。


「生意気な目だ。くりぬいてやろうか、それとも鼻を削ぎ落とされるがいいか。指でも切って送りつければ親分も気が変わるだろう」

 細目は歪んだ笑みを浮かべる。しかし、怯える様子を見せぬ榊に諸岡は苛立つ。榊の頬に冷たい刃が触れる。細目をぶっ飛ばし、諸岡の銃を奪う。牽制しながら海に飛び込めば逃げ切れるか。榊の眼光が鋭く光る。


「ひぎゃっ」

 細目が情けない叫び声を上げ、青竜刀を手放した。細目の手首に鋼のスローイングナイフが突き立っている。血が迸り、甲板を赤く濡らす。

「なんだ」

「どうした」

 慌てふためく詰襟たちの太腿に、肩口に、スローイングナイフが飛来し深々と突き刺さる。青竜刀を拾おうとした一人が動きを止め、その場に倒れ込んだ。背中にはナイフが突き立っている。


「余計な真似を」

 榊はニヤリと笑い、ナイフが飛来した導線を辿りコンテナの上を見上げた。闇に紛れるように静かに佇むのは元プロの暗殺者、曹瑛だ。

「こんなところまで連れて来られるとは、どこまでも間抜けな奴だ」

 曹瑛は軽やかにコンテナを蹴り、甲板に降り立った。

「畜生、貴様らふざけやがって」

 血みどろの詰襟が呻き声を上げてのたうちまわる姿に、諸岡は足の震えが止まらない。


「くそったれがっ」

 銃口を榊に向けようとした瞬間、脊髄を貫く強烈な電撃が走り身体が宙に跳ねた。

「リミッター解除の特別仕様をお見舞いしてやった、一週間は寝たきりだ」

 甲板に倒れて痙攣する諸岡の背後に、高谷がペン型スタンガンを持って立っている。

「榊さん、大丈夫なの」

 高谷は唇の端から血を流し、シャツを切り裂かれた榊の姿を見て呼吸が止まりそうになる。

「ああ、大丈夫だ。心配かけたな」

 榊は穏やかな笑みを浮かべる。その表情に安堵し、高谷は一気に肩の力が抜けた。


「すまん、面倒かけた」

 榊は曹瑛に向き直る。

「血、出てるぞ」

 曹瑛はフンと鼻を鳴らして笑うと、踵を返し甲板を歩いていく。榊はシャツの袖口で唇の血を拭う。高谷はポケットから発煙筒を取り出し、甲板に転がした。白煙が夜空に立ち上る。コンテナ埠頭で待つ孫景に届いているはずだ。海上保安庁がこのタンカーへ駆け付けることになる。


「榊さん、無事で良かったよ」

 伊織はゴムボートのエンジンをかける。榊に高谷、曹瑛は鉤縄を伝い降りて、ボートへ乗り込んだ。ボートは飛沫を上げて陸を目指す。

「榊さん、これ」

 高谷はミッドナイトブルーのデュポンを手渡す。榊はスーツのポケットからフィリップモリスを取り出し、デュポンで火をつける。

「一本くれ」

 曹瑛ももらいタバコで一服始める。手に馴染んだデュポンの涼やかな開閉音を聞いて、榊は満足そうに微笑んだ。

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