第2話

 閉店後の烏鵲堂。

 高谷は格子窓の隙間から高層ビル群の隙間に沈んでゆく夕陽をぼんやりと眺めている。頬杖をつく表情は物憂げで、残照がその影を濃く縁取る。烏鵲堂の店主曹瑛は高谷のただならぬ様子に勘づいたのか、テーブルに静かにグラスを置いて厨房へ戻っていく。


 鳳凰単叢蜜蘭香のライチのようなフルーティな香りがふわりと香る。

「曹瑛さん、ありがとう」

 呆然としていた高谷が弾かれたように反応する。温かい茶を口に含むと凍りついた心が溶けてゆくような気がした。澄んだ茶を満たした熱いグラスを両手で包み込みながら今日の出来事を思い出す。


 ***


 祖母の久美子が救急車で運ばれたと、榊原組で若頭を務める大塚から連絡を受けた。祖母とは十四年前の決別以来顔を合わせていない。組長の跡取り候補として榊原の家に連れられたときから他人になったと認識していた。高谷を差し出した母もそのつもりだったのだろう、互いに連絡を絶っていた。


 大塚を通して連絡してきたのは高谷の母だ。そうでなければ大塚がそれを知るよしもない。

 今さらどうして、と高谷は歯噛みする。一度は棄てた息子だが、せめて祖母の死に目に合わせてやろうという情だろうか。

 練馬のアパートで一緒に暮らしていたときから、愛情表現の下手だった母の心を読み取ることは困難だった。時折見せる物憂げな表情は美しかったが、子供心を不安にさせた。母は未熟だった、と今なら思う。


 祖母の容態は詳しく知らされていない。高谷は朝一番に純天堂大学病院へ向かった。

 教えられた病室に向かうと、そこは特別室だった。祖母は点滴のチューブに繋がれ、白い部屋の中で無機質な心電図の音が響いていた。

 しわが増えた祖母の顔はずいぶん老け込んでいた。日中は寝て、夜には仕事に出る母よりも祖母と過ごす時間は多かった。甘やかされた記憶はあまりないが、日曜日にお寺参りに行った帰りに小ぶりなスケッチブックを買ってもらったことを覚えている。孤独な高谷はよく一人で絵を描いた。裏表を使ってもすぐにページが無くなった。


「ばあちゃん」

 高谷はベッドサイドで祖母に呼びかける。反応は無い。よく眠っているのか、意識が戻らないのか。ほとんど白髪になった頭に痛々しく白いネットが巻かれている。転倒して頭を打ったと聞いていた。

「高谷さんのご家族ですか」

 若い医師が回診にやってきた。高谷は躊躇いがちに頷いた。家族だった、とも言えない。


「脳梗塞で意識を消失され転倒したようです。頭部外傷は表面的なものですが、梗塞の後遺症で意識が混濁しています。後遺症が残るかどうかは意識が戻ってからでないとわからないという状況です」

 医師は早口で説明する。命に別状はない、と言う。意識が戻らぬままだが医学的にはそういうことなのだ。

 気の毒そうに祖母の顔を見下ろし、顔色とバイタルを確認して部屋を出ていった。すぐに入れ替わりで看護師がやってきた。


「書類にサインをいただけますか」

 緊急入院のため、書類が滞っているらしい。同居家族ではない、と伝えたが家族なら誰でも、と押し切られてしまった。入院計画や今後のリハビリ先についても一気に説明して保証人のサインまでせしめると、看護師は「ごゆっくり」と部屋を出ていった。

 母はどういうつもりなのだろう、高谷は不信感を募らせる。この膨大な書類の処理や、退院できたとして介護サービスの利用申請などやるべきことを放棄して自分に任せようというのだろうか。


 母が頼れる存在は十四年前に手放した一人息子だけなのか。高谷は頼りない母の物憂げな笑みを思い出す。

「ばあちゃん」

 高谷はもう一度呼びかける。ふとんからはみ出した皺だらけの手を握ると、微かに力が入った。

「ばあちゃん、結紀だよ」

 高谷は手をぎゅっと握り返す。祖母は眉間に皺を寄せて、微かに唇を動かし小さな唸り声を上げた。


 複雑な気持ちのまま病院を後にした。バス停の待ち時間で榊にメッセージを送った。どうしても誰かと飲みたい気分だった。

 ――今夜は店に行く予定だ。烏鵲堂で会おう。

 店、とは榊が経営する新宿にあるバーGOLD HEARTのことだ。榊に会っても祖母の話をするかどうかは分からない。ただ兄の顔を見られるだけで良かった。それだけでも心は救われる。


 ***


 長い腕が伸びてきて、物思いに耽る高谷の目の前に小皿に載った月餅が置かれた。

「烏龍茶と緑茶、新作だ」

 美しい中華風の華の文様で、それぞれ茶色と緑で色づけしてある。二つ並べると色味も良い。中国茶の店ならではの変わり種できっと評判になるに違いない。

「腹が減っていると悩みが深くなる」

 高谷は曹瑛の顔を見上げる。無表情だが、彼なりの気遣いだろう。


 烏龍茶味を摘まんで口へ運ぶと茶の風味がする。一口囓れば甘さの中に烏龍茶のほろ苦さが感じられる上品な味わいだ。

「うん、香りもいいし甘さ控えめで美味しい」

 高谷の反応に気を良くしたのか、曹瑛は唇の端を吊り上げて得意げな笑みを浮かべる。

「今日は榊と待ち合わせだな」

 高谷がバイト終わりに店でたむろしているのは榊を待っていることが多い。榊にも新作の感想を聞こうというつもりらしい。


 階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。この歩幅とリズムは伊織だ。

「これ差し入れ」

 伊織が紙袋を曹瑛に手渡す。曹瑛はグラスに淹れた二人分の蜜蘭香と試作品の月餅を持って席についた。

「すごいね、月餅っていろんなアレンジができるんだ」

 伊織は緑茶月餅を眺めて感嘆の声を上げる。中国緑茶の渋く爽やかな風味がよく出ている。

「見栄えもいいよ」

 表面の美しい文様も風流がある。食べるのが勿体ないくらいだ。

「型は淘寶タオバオで仕入れた」

 タオバオは日本で言う楽天やアマゾンのような中国大手の通販サイトだ。そう言えば、曹瑛は淘寶でよく頓狂なキャラクターの部屋着を買っていた。


「高谷くん、浮かない顔してるね」

 伊織が普段より口数の少ない高谷の様子に気付いた。

「うん、今日いろいろあって」

 高谷は口籠もる。

「良かったら話を聞くよ」

「話せば楽になる」

 黒の長袍姿で長い脚を組み、伊織の持って来た亀澤堂のどら焼きにかぶりつきながら曹瑛が鋭い視線を送る。その言葉、優しさのはずだが、怖い。


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