エピソード4 家族の肖像
第1話
「結紀、これから榊原さんのお家に行くのよ。そこで良い子にして、よく面倒をみてもらいなさい」
母は膝をついて結紀の目を見つめた。母の形の良い瞳は涙に潤んでいた。結紀はもう母に会うことはないのだ、と子供心に悟った。これまでで一番母親らしい顔だ、と思った。
開け放たれた玄関のドアの向こうは目映い夏の日差しと蝉時雨が降り注いでいた。振り向けば黒いスーツに身を包んだ大柄の男が二人、待ち構えていた。
大きな厚みのある手が結紀の小さな手を掴んだ。ああ、もうここへ戻ることはないのだ。寂しくないといえば嘘になる。しかし、寂しいと叫んでも誰も助けてはくれない。
奥の座敷に座る祖母が無言のままこちらを見ていた。彼女には決定権はない。やるせない表情に結紀は自分への申し訳程度の情を感じようとした。
黒塗りのベンツに押し込められ、重厚なドアが閉まる音に結紀は身を固くする。冷房が効いた車内は革とタバコとシトラス系の芳香剤の匂いがした。車は走り出し、真っ黒なスモークガラスから見上げるモノトーンの青空に雲が流れていく。
***
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む日差しが揺れている。枕元に置いた時計を見ると朝八時四十分。今日の講義は二限からだ。まだまどろんでいられる。
懐かしい夢を見た。七歳まで暮らしたアパートを離れるときの夢だ。決まって明け方に見る。もしかしたらいつも見ているが覚えていないだけなのかもしれない。
まるで映画のシーンのようにその光景が広がっている。自分は観客として淡々とそのシーンを見つめている。母と別れ際に寂しいという気持ちはあった、と思う。しかし、泣きわめいても無駄だと思った結紀はただ大人しく男たちに引かれていった。
母は悲しんでいたのだろうか、今となっては分からない。自分を手放すことで新しい人生を手に入れたのかもしれない。それならそれでいい、と思っている。
高谷結紀の父は小田原を本拠地として神奈川県西部を掌握する榊原組の組長、榊原昭臣だ。榊原は一代で組を大きくしたキレ者で、関東一円を支配下に置く麒麟会の顔役でもある。結紀の母、高谷真央は務めていた六本木の高級クラブで榊原と出会い、子を為した。
真央は弱い女だった。極道の妻になる覚悟は無かった。榊原は真央の意思を尊重し、結紀を彼女に預け、潔く関係を断った。真央は結紀を七年間育てた。アパートに同居する彼女の母、久美子の支援あっての子育てだった。
母は愛情表現が下手だった。彼女の物憂げな表情を見ると結紀は何も言えなくなった。同級生が親に抱きついて甘える様子を見て羨ましく思ったが、同じように母に甘えることはできなかった。いつしか他人の顔色を覗うことが習慣になった。結紀は同じ年頃の子供よりも大人びて見られるようになった。
結紀が突然榊原の家に引き取られたのは、昭臣の長男である英臣が後継者となることを拒絶したことがきっかけだった。当時、英臣は高校三年生だった。突然現われた父と、継母と、異母兄弟の英臣。英臣は大きな屋敷の中で居場所がなくて戸惑う結紀をよく世話してくれた。結紀は英臣にだけは心を開くようになった。
親の築いた地盤の上に胡座をかくことを良しとしない英臣は、大学進学を機に榊原の家からの離縁を切り出した。名字を榊と改め、実家からの一切の支援を受けることなく自分の力で生きる道を選んだ。
皮肉にも、英臣の背中を見て育った結紀も同じ決断をした。昭臣は血の繋がった後継者が欲しかったはずだが、苦渋の選択で結紀を離縁した。それも親の愛だと結紀は弁えている。
何のしがらみもないが、再び母方の姓である高谷を名乗ることにした。
学費も生活費も実家の援助は一切ないが、大学には優秀な成績で推薦入学できたため、学費の大幅免除と奨学金でやりくりできている。
気怠い身体を起こし、スマートフォンを手にする。珍しい相手からメッセージが入っていた。榊原組の若頭大塚だ。実家とは離縁したものの、昔から面倒を見てくれた大塚は時々気にかけて結紀に連絡を寄越してくれる。
――久美子さんが倒れて病院に運ばれた。
久美子は祖母の名前だ。七歳のときに離ればなれになって以来、母方の家族とはまったく連絡を取っていなかった。名前を見ても一瞬ピンとこなかったくらいだ。
祖母は別れた当時何歳だっただろうか、定かでは無いがあれから十四年経つ。老齢にさしかかっているだろう。なんらかの病気で倒れてもおかしくはない。
結紀はスマートフォンで大塚の番号をコールする。
「ああ、坊ちゃん」
大塚のドスの聞いた声だ。もう榊原家と離縁したというのに、大塚は律儀に坊ちゃんと呼ぶ。
「ばあちゃんが倒れたって」
「ええ、転倒して救急車で運ばれたと聞きました。まだ意識が戻らないとか」
「その話、どこから」
結紀には分かっている。それでも聞いておこうと思った。
「その、真央さんからです。病院の場所と病室の番号を聞いています」
母は結紀に祖母を見舞って欲しくて連絡してきたのだ。直接ではなく、大塚を通してというところに結紀は母に対する絡みつく糸のような複雑な感情を思い出す。
「わかった、連絡ありがとう」
通話を終了すると、大塚からすぐにメッセージが届いた。大学病院の位置情報と部屋番号だ。結紀は服を着替え、カバンを掴むと部屋を飛び出した。
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