第8話

「すみません、ぼくのせいでこんなことに」

 郭秀英は何度も頭を下げる。当初は贋作と知らされず組織の悪事に荷担させられたのだ。彼自身もひどく傷ついているに違いない。

「心配ない、闇マーケットに出回った君の描いた絵は取り戻したる」

 劉玲は項垂れる秀英の肩をポンと叩き、あっけらかんと笑う。贋作制作者として悪名が広がることはないだろう。劉玲の気遣いに秀英は涙を流した。


「伊織さんも怪我をして」

 秀英が心配そうな顔を向ける。そういえば、さっき殴られた頬と腹がジンジン疼いている。

「慣れないことしちゃったからね」

 伊織はばつが悪そうに頭をかく。とてもじゃないが、劉玲や曹瑛のようには戦えない。


「伊織くんはすごいで、伊織くんの機転でここに駆け付けることができたんや。しかも、キッチリ落とし前つけおった、さすが東京の赤い虎や」

 劉玲が地面にのびている赤シャツを指差す。

「その呼び方やめてよ」

 劉玲が面白がって伊織を揶揄するが、正直勘弁してほしい。伊織は苦笑いを浮かべる。東方の紅い虎は曹瑛の暗殺者時代の二つ名だ。噂が一人歩きしていると、本人は不本意らしい。


「用は済んだな、俺は帰る」

「助かったで、曹瑛。ほんまに頼れる弟や」

 曹瑛はNinjaのアクセルを吹かし、重低音を轟かせながら帰っていった。長袍姿でモンスターマシンに乗り、首都高を爆走する姿は人目を引くに違いない。

「さて、今日のメインイベントは新宿御苑や」

 劉玲はスマートフォンのアプリでタクシーを手配する。伊織と郭秀英はタクシーに乗り込む。


***


 新宿御苑につく頃には陽が傾きかけていた。橙から紫へ変化するグラデーションの空に輝く雲がたなびいている。人混みをかき分け劉玲がスタッフに書類を見せると、長蛇の列に並ぶこと無く関係者通路へ通された。

「ええ席を準備してあるで」

 林立する高層ビルをバックにした木立の中に能舞台が設えてあった。舞台近くに並ぶ椅子にツアーメンバーの顔もある。


 舞台袖にある松明に火が灯される。宵闇に森を照らす篝火は観客を幽玄の世界へ誘う。

「能を見るのは初めてです」

 郭秀英が興奮を抑えきれない様子で舞台を見つめている。本当に芸術に対する関心が強い、と思う。伊織も薪能を生で見るのは初めてで、心底楽しみだ。


 薪能は奈良の春日大社や興福寺が発祥とされる。もとは神事だったが、猿楽を奉納する儀式となり、江戸時代には日本各地で特色のある薪能が催されるようになった。現代でも寺社や御苑、城郭などで開催され、人気を誇る。

 闇夜に揺れる篝火、薪の爆ぜる音、風の音に虫の声。屋外で行われる薪能は自然そのものが舞台装置だ。


 今日の演目は『土蜘蛛』だ。

 病気で伏せる源頼光の元へ見知らぬ法師がやってくる。法師は蜘蛛の化け物で、頼光を糸で絡め取る。頼光は伝家の宝刀膝丸で斬りつけ、法師は姿を消す。

 騒ぎを聞きつけた頼光の部下独武者が部下を連れて駆け付ける。頼光の命で独武者は血の跡を辿り、化け蜘蛛を追う。

 独武者は化け蜘蛛の巣である古塚を発見し、これを退治する。


 勧善懲悪のシンプルなストーリーと、和紙で作られた蜘蛛の糸を投げる演出の派手さはエンターテイメント性が高く、薪能でも人気の演目だ。


 いよいよ闇は深まり、鈴虫の声が涼を誘う。篝火が風に揺れて幻想的な雰囲気を醸し出す。

 舞台が始まった。笛の音に太鼓のリズム、床を踏みならす力強い足音、地謡の深みのある声。観客たちは能楽の世界へ引き込まれていく。真っ赤な髪に派手な衣装、恐ろしい鬼の面を被った土蜘蛛を演じるシテが蜘蛛の糸を放つと、観客は感嘆の声を上げる。


 上演が終了するとしばしの沈黙の後、大歓声と拍手が巻き起こった。幽玄世界から現実世界へ引き戻されたのだ。

「日本の伝統芸能はすばらしい」

 言葉が分からなくても能の持つ深い精神世界へ引き込まれたのだろう、郭秀英は涙を流して感動している。伊織も初めての薪能で日本の伝統芸能の素晴らしさを実感した。良い記事が書けそうな手応えを掴んだ。


「能楽を大成した世阿弥は初心忘るべからず、という言葉を残したんだよ」

 伊織が能舞台を見つめながら語り始める。

「初心は初めてのことにぶつかる未熟な状態、慣れてからも怠慢な気持ちにならず、そのときの心を思い出して精進せよ、って意味だよ」

 郭秀英は静かに耳を傾けている。

「不忘初心 继续前行。中国にも同じ意味の言葉があるね」

「ありがとう、伊織さん。私はこの舞台で感じたこと、伊織さんの言葉を忘れません」

 秀英の顔には穏やかな笑みと強い覚悟があった。


***


 翌日の午後、伊織は上海からのツアー一向を羽田空港へ見送りに行った。

 若い芸術家たちは日本の伝統芸能や美術に刺激を受けたようで、活気に溢れていた。

「お世話になりました。離れるのが寂しいです。また日本で勉強したい」

「うん、いつでもおいで。君たちの活躍を楽しみにしているよ」

 伊織は郭秀英と握手を交した。


「そうだ、これ」

 伊織は絵はがきを取り出す。伊織の故郷にある海にかかる白い橋の写真だ。

「これは本州と四国を繋ぐ橋だよ。海の上に橋をかけようという話が出たとき、誰もが夢のようだと驚いたんだ。世紀の難工事と呼ばれたけど、10年以上の歳月をかけて橋は完成して大事な架け橋となったんだ」

 君の夢もきっと叶うよ、と伊織は付け加えた。


 展望デッキから中国東方航空が飛び立つのを見送る。銀色の機体は雲の中に吸い込まれていく。

「あの子らには未来がある。秀英はんもきっと大成する」

 伊織の隣に立つ劉玲は眩しそうに青空を見上げる。

「俺も信じてますよ」

 伊織は頷いた。


「ほな、いこか。今夜は百花繚乱で打ち上げや」

 伊織は劉玲のフットワークの軽さに関心する。贋作づくりの主犯を押さえて劉玲は上機嫌だ。帰国予定を遅らせて打ち上げをすると日本に残ることにしたらしい。

 曹瑛、榊に高谷も呼んで烏鵲堂の横にある中華料理店を予約しているという。


 それから半年後、伊織のもとに郭秀英から上海芸術祭で作品が佳作に選ばれたとメッセージが届いた。作品の前に立つ郭秀英と、その隣には顔をしわくちゃにして微笑む優しそうな祖母の写真が添えられていた。

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