第7話
オーバーに痛がる振りをして地面に蹲っていた伊織は赤シャツの背後にまわり込み、手首を縛っていたロープを瞬時に解いて首を締める。ロープで縛られるとき、どんなにきつく縛られてもすぐに抜けられるように手首を捻っておいたのだ。
「うぐぐっ」
赤シャツはロープの巻き付いた首元を引っ掻きながら脚をバタバタさせている。
「仲間がどうなっても良いのか」
伊織は虚勢を張る。目の前には中国マフィアの詰襟五人と日本のヤクザが二人、睨みを利かせている。
「貴様、正気か。ここから逃げられると思ってるのか」
梁伯章が冷ややかな目で伊織を値踏みする。
「ははは、殺すなら殺してみろ、お人好しそうな顔してそんなことできるわけねぇ」
仲島が面白そうに笑う。呼吸困難の赤シャツは涙目で白目を剥いている。
確かに大ピンチだ、この状況では郭秀英と共に無事逃げ出すことなど不可能だ。万事休す、伊織は唇を噛む。
「お前ら知らんのか、その男は東京の赤い虎と呼ばれる伝説の男なんやで」
頭上から聞こえた軽妙な関西弁に全員が顔を上げる。そこにはクレーンに掴まった劉玲の姿があった。
「劉玲さん、何でここに」
伊織は驚いて目を見張る。電話では場所は伝えられなかった。
「GPSや、秀英の靴に仕込んどいた。さすが孫景はんのオススメや。軍事衛星経由でめちゃくちゃ精度がええ」
劉玲が軽やかに地面に降り立つ。
「東方の紅い虎と言えば、かつて八虎連にいた凄腕の暗殺者だ」
「噂に聞いたことがある。見せしめのために現場は毎回血の海、冷徹で恐ろしい男だと」
「だがあいつは虫も殺せないような顔をしているぞ」
「待てよ今、”東京の”って言ってたぞ」
伝説を知る中国マフィアたちは青ざめて色めき立つ。
「さて、秀英はん返してもらおか」
劉玲は誘拐犯の黒幕、梁伯章に向き直る。
「この男は金になる。誰が貴様の言うことなど」
言いかけて、梁伯章は口をあんぐり開けたまま固まった。額から脂汗を流し膝はガクガク震えている。
「まさか、あなたは上海九龍会の劉老師では」
梁伯章からその名を聞いた詰襟の中国マフィアたちも、顔を見合わせて震え上がる。
「何だ、どうした」
梁伯章たちの動揺が伝わったのか、日本のヤクザたちも狼狽始めた。
「何を怯えてやがる、どんな大物か知らねぇが部下も仲間もいないなら何も怖くねえ。ここで始末すればあんたの名も上がるぞ」
苛立つ仲島が梁伯章を焚き付ける。確かにそうだ、大組織の幹部だというのにこんな場所にひとりでノコノコやってきた。これはチャンスだ。梁伯章の瞳が不敵な光を帯びる。
「劉玲、あんたを消せば、俺は鳳仙会の幹部候補間違いなしだ」
梁伯章は態度を翻し、不遜な笑みを浮かべて劉玲を指さす。
「愚か者の考えることや、ほんまわかりやすい」
劉玲は肩を揺らして笑う。丸腰なのにこの余裕は一体どこからくるのか、伊織はひたすら感心する。
赤シャツが喚き散らしながら暴れ始める。ロープが緩んだ隙をついて、伊織に向き直り拳を繰り出した。
「この野郎、舐めたマネしやがって」
「うわあっ」
伊織は拳を避けてしゃがみ込む。赤シャツは怒りに任せて蹴りを放つ。
「ひええっ」
伊織はそれを避けようと勢い良く飛び上がった。伊織の強烈な頭突きをまともに顎に喰らった赤シャツは平衡感覚を失い、地面にぶっ倒れた。
「お、やるな、伊織くん」
劉玲が親指を立てて見せる。口元に余裕の笑みを浮かべ、上段蹴りで襲いかかる詰襟を吹っ飛ばす。
「俺は足癖が悪いんや」
軸足を変えながら踊るように詰襟たちを蹴散らしていく。膝をついた詰襟の背中に飛び乗り、ドスを取り出そうとしたピンストライプのスーツ男の脳天に踵落としを決めた。
「ぐぐ、劉玲がこんなに強いとは」
組織のボスは部下を引き連れてふんぞり返っているものだ。それが単身敵地に乗り込んで大暴れしている。周囲には劉玲の蹴りの洗礼を受けた詰襟たちが転がっている。梁伯章は奥歯をギリギリと噛みしめる。
劉玲に注目が集まっている、今がチャンスだ。伊織は気絶した赤シャツを地面に転がして、椅子に縛りつけられた郭秀英の元へ走る。郭秀英のロープを解き、工場内に避難させる。
「そこまでだ、調子に乗るなよ」
仲島が胸ポケットからトカレフを取り出し、劉玲を狙う。劉玲は無抵抗の意思を示して肩を竦める。
「いくらケンカが強くてもこいつには敵うまい」
仲島は撃鉄を下ろし、引き金に指をかける。
「降参や、いうても弾くんやろ」
「そうだ。梁の旦那、ボーナスをいただくぜ」
仲島は唇の端を吊り上げ、下卑た笑みを浮かべる。
「ギャッ」
仲島が叫んでトカレフを地面に取り落とす。その腕には深々と銀色に光るスローイングナイフが突き立っていた。
梁伯章がトカレフを拾いに走る。劉玲は右足を軸に身体を思い切り捻り、体重を乗せた蹴りを放つ。梁伯章の身体は吹っ飛び、スクラップの山に叩きつけられた。
仲島は腕に突き立ったナイフを忌々しげに引き抜き、仲間を置いて逃げ出した。目の前に黒い長袍の男が道を塞ぐように立っている。
「クソっ、どけ」
長袍の裾が舞う。男が瞬時に身を翻し、リーチの長い足で美しい弧を描く。仲島は顔面に強烈な蹴りを食らい、鼻血を迸らせてぶっ倒れた。
「瑛さん」
まさかの曹瑛の姿に伊織は驚きの声を上げる。曹瑛と劉玲、この兄弟を敵に回した奴らを憐れに思った。
「人使いの荒い兄貴だ」
曹瑛は裾の埃を払う。どうやら留守電を聞いた劉玲に請われ、烏鵲堂を臨時休業にしてNinjaをぶっ飛ばしてここへ駆け付けたらしい。足に使われた割に出番が無かった、と不満を漏らしている。
「さて、梁伯章。お前の贋作コレクションは相応の値段設定にしておいたで」
劉玲がスマートフォンの画面をスクロールして見せる。闇マーケットに出品した名画の贋作がすべて十元(約二百円)で売りに出されていた。伊織は高谷が得意げにピースサインをする姿を思い浮かべ、プッと吹き出した。
「嘘だろ、俺の絵が、畜生」
梁伯章は衝撃のあまり白目を剥いて口から泡を吹き、スクラップの山に倒れ込んだ。
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