第6話

 浜離宮恩賜公園は江戸時代に創設され、歴代将軍に愛された由緒ある庭園だ。高層ビル郡の中で緑豊かな自然を楽しむことができる。

 園内にある潮入の池は東京湾の海水を引いており、潮の満引きにより違った趣を楽しむことができる。


 午前中にメールの返信やアポイントなどの内勤業務を済ませて、伊織はカブを走らせて浜離宮恩賜公園にやってきた。

 ツアー一行は午後からここ浜離宮の日本庭園を見学することになっている。若い芸術家たちは疲れを知ることなく、庭園の風景を写真に収めている。


「秀英さん、元気がないね。疲れが出たのかな」

 伊織は池にかかる橋のたもとで水面を見つめている郭秀英に声をかける。心ここに在らずといった様子だ。 

 それもそのはず、昨日は中国マフィアと日本のヤクザに挟まれて卑劣な脅しをかけられていたのだ。彼は最後まで専属の贋作作家になることについて返答を濁しており、無法者たちは苛立っていた。


「田舎の家族が心配でね」

 郭秀英は絵に興味を持った自分を応援して上海の専門学校へ行かせてくれた祖母が闘病中なのだと話してくれた。

「そうか、素敵なおばあちゃんを持ったね」

 伊織は事情を知らぬふりで相槌を打つ。

「祖母に恩返しをしたいけど、ぼくはまだ何も成し遂げていない」

 それどころか、贋作制作に加担してしまった。郭秀英は苦悩のため息を漏らす。


「俺もね、八年間働いた職場をクビになって、その時は一体何をしてきたんだって落ち込んだよ。でも、きっかけがあって今の仕事につくことができたんだ」

 伊織はハルビンの火鍋屋で仲間たちに元気づけられたことを懐かしく思い出す。

「編集長は人使いが荒いし、企画から取材、記事執筆から写真まで、雑多で忙しない仕事だけど楽しいよ。これが天職かどうかはわからないけど、向いてるのかな」

 伊織は照れながら頭を掻く。


「君は迷いがあるのかも、本当にやりたいことが何なのか、焦らずにじっくり考えてみても良いかもね」

 郭秀英は池を見つめて項垂れていたが、ハッとして顔を上げた。

「秀英さんには才能がある。正しい道を進めばきっと夢は叶うよ」

 伊織の瞳は真っ直ぐで、強い力を感じた。


「伊織さん、実は」

 松林の小道を歩きながらしばらく無言だった郭秀英が立ち止まる。

「郭秀英だな、お前に用がある」

 突如、郭秀英を黒いスーツの男三人が取り囲む。一人は昨日六本木のバーにいた鬼柳会の仲島だ。トレードマークの紫色のタイは酷く悪趣味だ。園内は禁煙エリアなのにこれ見よがしにタバコを取り出し、火を点けた。


「来いや、兄ちゃん」

 赤い柄シャツが郭秀英の腕を乱暴に掴む。郭秀英は抵抗するが、体格差もあり敵うべくもない。

「何するんだ、やめろ」

 伊織が大声で叫ぶ。

「邪魔すんな、怪我したくないだろ」

 ピンストライプのスーツ男が胸元に隠した銃をちらつかせる。伊織は口ごもり、悔しさに歯噛みする。ヤクザ者たちは郭秀英を連れて松林に消えていく。


 関係者通用口のフェンスを抜けて駐車場に停めた黒いバンに郭秀英を押し込め、走り出した。手荒なやり口からして郭秀英が断れば相応の報復があるだろう。

 このまま逃したら郭秀英の行方がわからなくなる。伊織は駐車場のカブに跨り、エンジンをかける。

「俺が追いかけたところでどうにもできない、けど」

 このまま放っておくことなんかできない。伊織はヘルメットの紐をギュッと締め、アクセルを吹かした。


 劉玲は午後から別行動だ。助けを求めてもすぐに駆け付けることはできない。郭秀英を助けることができるのは今は自分だけだ。

 伊織は黒いバンを追って高架下を走る。バンのナンバーは893だ。奴らがアホで良かった、覚えやすい。

 バンは港湾の方へハンドルを切る。ほれ見たことか、悪者のアジトは港の倉庫と相場が決まっている。

 伊織は距離を取りながらバンを追跡する。


 バンは湾岸のスクラップ工場へ入っていく。伊織は空き地にカブを停め、劉玲に電話をかける。呼び出し音がしばらく鳴り続けた後、留守番メッセージが流れ始めた。

「郭秀英さんが誘拐された。場所は湾岸の」

 そこまで言いかけたとき、背後から肩口を乱暴に掴まれ、続いて拳が飛んできた。


 伊織は顔を殴りつけられ、トタンの壁にしたたかに身体を打ちつける。赤シャツが尻餅をついた伊織をニヤニヤしながら見下ろしている。

「お前、公園にいた奴だな」

「秀英さんをどうするつもりだ」

 伊織は赤シャツを睨みつける。口の中が切れて血の味がした。

「奴を欲しがる中国マフィアに引き渡すんだよ、お前も来い」

 赤シャツは伊織の首元にナイフを突きつける。やむなく従うしか無かった。


 伊織は工場裏手に連れられていく。そこにパイプ椅子に括り付けられた郭秀英の姿があった。脇に立つ冷酷な目つきの黒い詰襟の男は梁伯章だ。

「伊織さん、どうして」

 郭秀英は驚きの声を上げる。

「ごめんよ、君を助けたかったのにとんだ間抜けだ」

 伊織はがっくりと項垂れる。

「良かったな、お友達ができて」

 赤シャツは伊織の手を後ろに回してロープで縛り上げた。


「お前の才能を買っている。組織専属の絵描きになれ。立派なアトリエを用意してやるし、大金が手に入る。大事な祖母も充分な治療が受けられる」

 梁伯章は郭秀英の肩を馴れ馴れしく撫でる。

「甘言に惑わされたら駄目だ。君は人の心を動かす絵を描きたいんだろう」

 郭秀英は伊織の言葉に目を細めて唇を噛む。

「うるせえ奴だ」

 赤シャツは伊織の腹を殴りつける。伊織はうめき声を上げて地面に蹲る。


「拒絶するならお前は用済みだ。ここにあるスクラップのようにな。両手を潰して二度と絵筆を握れないようにしてやる」

 梁伯章は郭秀英の前髪を鷲掴みにして凄みを効かせる。背後で機械に粉砕される鉄屑がバキバキと派手な音を立てている。

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