第6話
孫香月は福永部長の部屋をノックする。通常、個室は診療科の主任部長にしか与えられないが、現主任部長が副院長兼務のため空室の部屋を使用している。福永は院内で政治的立ち回りが上手く、次期主任部長候補だ。主任部長室を使う権利はあると考ていてる。
「どうぞ」
厳めしい声で返事があった。デスクでパソコンに集中していた福永が面倒臭そうに振り返る。香月の顔を見て一瞬顔色を濁らせる。
「なんだね」
「これを返しにきました」
香月は黒いUSBメモリを差し出す。福永はピクリと眉を動かし、香月を睨み付けながら無言で受け取る。
「これは福永先生のものですか」
訊ねられて福永は眉に深い皺を刻む。
「君が返すというから受け取ったのだが」
「ええ、部長のUSBメモリです。私が間違えて持って帰ってしまいました」
香月は平然を装う。互いに腹の探り合いだ。
「そうか、気をつけたまえ」
福永はふんと鼻を鳴らし、USBメモリを引き出しに放り込む。香月は部屋を出て行こうとして、立ち止まる。
「医は仁ならざるの術、つとめて仁をなさんと欲す」
「なんだね君、一体」
福永はこれ見よがしに大きな溜息をつきながらデスクを叩いて立ち上がる。香月は真っ直ぐに福永の目を見据えている。福永は嫌悪を宿した瞳で香月を睨み付ける。
「人を救うのが医者の道、患者の立場から謙虚に学ぶべきという江戸時代の中津藩藩医大江雲澤の言葉ですね。素晴らしいと思います」
香月はそれだけ言い残して部屋を出ていった。
「小娘が、余計なことを」
福永はその言葉から、香月が治験の不正を知っていることを察知する。生え際が後退したこめかみに青筋を浮かべながら大きく舌打ちをした。
***
地下通路を慌ただしく駆ける足音が近付いてきた。セキュリティを解除し、地下資料室へ駆け込む。
「福永先生、どこですか」
楢本は福永に至急ここへ来るようPHSで呼び出されたのだ。ランサムウエア対策会議が長引いて慌てて駆け付けた。横暴な福永は待たせただけでいつも機嫌が悪くなる。
薄暗い資料室は不気味だ。福永の姿を探し、楢本は棚の間を歩きまわる。
不意に背後から首を締め上げられ、無理やりパイプ椅子に座らされた。振り向こうとすると、両頬を叩かれた。
「振り向くんじゃねえ。妙な動きをすれば無事に帰れないぜ」
「ひっ」
ドスの聞いた声音に、楢本は身体を強張らせる。首に巻かれているのは聴診器のコードだ。背後に白衣がはためくのが見えた。
「率直に聞く。ランサムウエアの件、狙いを教えろ」
電子音声が薄暗い資料室のコンクリートの壁に不気味に反響する。楢本は一瞬にして血の気が一気に下がるのを感じ、震え始める。
「何のことだ、ぼくは知らない」
「ほう、この期に及んで嘘をつく気か」
太いコードが首にぐっと食い込む。
「ま、待て。やめろ。話す、話すから」
楢本は慌てて首を振る。
「オロチを仕込んだのはお前か」
「ち、違う。ぼくは関係な・・・・・・うぐぐ」
再び首を締め上げられ、楢本は足をバタつかせる。
「オロチを作ったのはぼくじゃない」
「電子カルテを確実にロックするソースを書いたのはお前だ。そしてお前がサーバーに仕込んで発症させた」
抑揚の無い電子音声の告発に、楢本は青ざめる。
「復旧作業で出入りしているシステム業者ネクストコムサポートと組んで身代金を払って解決、金を山分けする算段だろう」
楢本は奥歯がぶつかるほどに戦慄している。なぜこいつらはそこまで知り得たのか。暗号化したメールのやりとりを把握していなければ不可能だ。
「この悪党が、目的は何だ」
白衣の男がコードで首を締め上げる。気道に食い込み、楢本は涙を流しながら咳き込む。
「金だ、金が欲しかったんだ。専門学校の同期は大手メーカーや外資に就職して今や高給取りだ。六本木の高層マンションで暮らしてる奴だっている。病院のシステム部門なんて安月給でバイトでもしなけりゃやっていけない」
楢本の悲壮な訴えに榊は内心呆れている。
「福永から何を頼まれた」
「そ、それは」
楢本はこれまでにないほど動揺する。聴診器のコードが頸動脈をじわじわと締め付ける。
「で、電子カルテの改ざんだ。特定の患者の検査データを指定通り書き換えるよう言われた。ランサムウエア事件もそれが目的だ」
「お疲れさん」
「ぐぐっ」
首を一気に締め上げられ、楢本の意識は遠のいていく。薄れ行く意識の中、長身の白衣の男と小柄な男が資料室を出ていく背中が見えて、目の前が真っ暗になった。
***
「治験データの改ざんのためにランサムウエアまで仕掛けて身代金を取ろうなんて、悪質にもほどがある」
閉店後の烏鵲堂に立ち寄った伊織は、高谷のハッキングで分かった事実に憤慨している。
「病院の診療は大混乱だった。部長の福永が主犯、馬場はそれに従っているようだな」
孫景も胸クソ悪い、と不機嫌を露わに吐き捨てる。欲に駆られた身勝手な連中に真剣に医を志す妹が巻き込まれて怒りを覚えている。
「ネクストコムサポートは伊原組のフロントだな」
榊の調べに間違いはない。表向きはアウトソーシングでプログラマーやエンジニアの派遣を行っているが、ブラックハッカーと呼ばれる悪質な技術者を囲い込んで悪事を働いている可能性は充分にある。
「USBメモリは返したのか」
曹瑛が冷えたジャスミン茶をテーブルに運んできた。
「ああ、香月が直接手渡した」
孫景はそっと返しておけばいい、危険を冒して正面きっていく必要はない、と諭したが香月は曲がったことは嫌いだと頑なだった。挑発と捉えられなければいいが、と気を揉んでいる。
「返したUSBメモリに仕掛けたプログラムで福永のパソコンのデータを入手したよ。証拠は充分すぎるほど揃った」
高谷は治験データの入ったUSBメモリにハッキングプログラムを仕込んだ。手元にデータが戻った福永は慌てて中身を確認した。バックグラウンドで起動したプログラムで福永のパソコンのデータを遠隔で吸い上げたのだ。
「まったく、お前を敵に回したくないぜ」
榊は誇らしげに優秀な弟の横顔を見やる。
孫景のスマートフォンが振動する。ビデオチャットの通知だ。
「どうした、遅いじゃないか」
「兄貴、ごめん」
香月の悲壮な声。すぐに画面が切り替わり、二人の派手な柄シャツの男のシルエットが映り込む。
「女を預かった。そっちの情報と引き換えだ。USBメモリのデータもどうせコピーしてあるんだろう」
「わかった。貴様ら、絶対に手出しするんじゃねえぞ」
孫景は怒りを押し殺して低い声で呟く。それでも冷静な判断ができるのは修羅場を踏んでいるからだ。
「お前らの出方次第だ。場所はチャットで送る」
通話は切れた。すぐに香月のアカウントから住所が送られてきた。孫景はジャスミンティーを飲み干して立ち上がる。曹瑛に伊織、榊と高谷も真剣な表情で顔を見合わせる。
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