第5話
江戸川医学研究所付属病院の待合室は診察待ちの患者でごった返していた。事務スタッフが書類の束を抱えて慌ただしく行き来している。長い待ち時間に耐えかねた患者がスタッフをつかまえてクレームを言う姿もあちこちで見られた。
ランサムウェア感染により電子カルテがロックされたことによる二次被害だ。
「電子カルテが使えないから紙カルテでなんとか診察を続けているのよ」
電子カルテシステムは患者の診察記録だけでなく検査オーダーや画像サーバーなど診療に必要な複数のシステムと接続されているため、使えないとなれば診療範囲も限られ、紙での運用にも限界があると香月は言う。
緊急でない患者は一旦帰るよう言われており、待合の喧騒は収まりそうにない。外来患者の対応もさることながら病棟に入院している患者の対応も喫緊だ。
「まさにテロだな、ひでぇことしやがる」
榊は怒りを押し殺した神妙な表情で黒縁眼鏡をくいと持ち上げる。ダーググレーのシャツの上に白衣を纏っている。高谷は白シャツに黒のチノパンで首から入館許可証を下げて病院の出入り業者を装う。
病院内のネットワークに侵入し、ランサムウェアを調べるためにやってきたのだ。
香月のUSBメモリ強奪事件と時を同じくして起きたランサムウェア事件は無関係とは思えない、というのが高谷の考えだ。
「気をつけてね」
香月は心配そうに高谷と榊を見比べる。
「うん、任せて」
高谷はピースサインで応え、榊と共に香月と別行動で地下資料室に向かう。地下一階の資料室は古い紙文書を保存しているだけで今はほとんど使われていない。職員専用のセキュリティエリアだが、高谷がカードキーをフリーパスで通過できるように設定している。
榊が偽造職員章をカードリーダーにかざすと、ドアのロックが解除された。資料室に足を踏み入れると、劣化した紙と埃の匂いが鼻をつく。古びた蛍光灯に照らされた室内は天井が狭く陰気な雰囲気が漂う。
空調のスイッチを入れると、重苦しい音を上げて年代もののエアコンが動き始めた。
「ここを作業場所に選んだのは人が寄りつかないからか」
榊がパイプ椅子に腰掛け、脚を組む。
「ここには検索にしか使われていない古いパソコンがあるはずなんだ」
高谷が棚の背後に回り込む。スチール製の事務机にブラウン管モニタとパソコンが設置してあるのを見つけた。
「これだ」
高谷はパソコンの電源を入れる。一際大きなファンの回転音がしてモニタにスタートアップ画面が表示される。
孫景が手を回して院内の管理端末リストを手に入れた。孫景はブローカーだ。仕事のスピードと情報の信頼性は手堅い。端末リストから高谷が選んだのは地下資料室のこのパソコンだった。
「随分古いバージョンのOSだな」
榊の記憶では学生自体に研究室にあったパソコンだ、つまりもう10年以上前になる。
「病院ってこういう化石みたいなパソコンをそのまま使っていることが多いよ」
とうの昔にアップデート配信は無くなり、サポートが切れているため逆に使いやすい、と高谷は口角を上げる。あくびが出るほど起動が遅いが、高谷は辛抱強く待つ。
セーフモードで起動すると、プログラム入力用のコマンドラインが表示された。高谷はピアノを演奏するようになめらかな動きでキーボードを叩き始める。
***
陽当たりのよいガラスの天窓、中央に常緑樹を設えた吹き抜けのグリーンコートは患者や家族の憩いの場となっている。昼休みとあって併設のカフェコーナーは盛況だ。
病棟回診を終えた香月が兄の孫景を見つけて手を振る。
「おまたせ、兄貴」
「おう、忙しいんじゃないのか」
「平気、それに気が紛れる」
香月は明るく振る舞っているが、不安に違いない。同じ医局に犯人がいることも分かっている。彼らは知らぬ振りをしている。それも不気味だ。
「昨晩、USBメモリのデータを調べたわ。薬剤溶出性心臓ステントの治験患者の検査データで、複数人で肝臓の数値に問題があった。薬剤の副作用ね」
そして、異常値のデータと正常値のデータが用意されていた。香月は唇を噛む。
「つまり、データ改ざんってことか」
「そう、副作用報告を上げないつもりだわ」
効能が画期的だとしても、高リスクの医材が世に出ることになる。患者の命を脅かすことを顧みない卑劣な悪事に怒りを覚え、香月は唇を噛む。
「面倒なことに巻き込んじゃったよね。榊さんに高谷くんもここまでやってくれるなんて」
香月は小さくため息をついて孫景に差し出されたアイスココアを飲む。ほろ苦い甘さは子供の頃を思い出す懐かしい味だ。
「あいつらはこういうのが好きなんだよ」
「いい人たちね。兄貴の周囲はみんなそう」
豪快に笑う孫景の姿に、香月はなにもかも安心していいと思えた。
「本当にやるのか」
孫景は渋い顔をして腕組をする。
「ええ、みんな協力してくれているのに私だけ安全な場所にいるのは嫌なの」
香月はテーブルに身を乗り出す。香月は言い出したら聞かない頑固なところがある。孫景は観念してポケットから茶封筒を取り出し、香月に手渡した。
「無理はするなよ。悪知恵の働く奴らだ。しかもチンピラが背後についている」
「うん、心配してくれてありがとう」
地下資料室で作業をしている高谷からビデオチャットのコールが入った。
「病院のネットワークに侵入していろいろ掴めてきたよ」
孫敬はスマートフォンに接続したワイヤレスイヤホンで高谷の報告を聞く。
ランサムウェアは世の中に出回っているオロチという種の劣化版亜種で、作ったのはサイバーテロのプロとは考えにくい。ソースコードを解読すると、電子カルテシステムをロックするプログラムが的確に書かれているという。
「電子カルテシステムのファイル構造を把握する人間がランサムウェアの作成を手助けしたように見える」
院内のシステム部の人間か、外部ベンダーが怪しい、と榊が付け加える。
「それに関して面白いことがわかったよ」
高谷はこの謎解きを楽しんでいる。
「院内PHSの通信記録を調べたら、心臓血管外科の福永と情報システム部の
「いよいよ怪しいな」
孫敬は香月を見やる。香月は孫景から受け取った茶封筒を真剣な眼差しで見つめ、白衣のポケットにしまった。
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