第4話

 香月はJR錦糸町駅から徒歩十二分の場所にマンスリーマンションを借りていた。留学先の江戸川医学研究所付属病院まで電車一本で行けるし、コンビニエンスストアやスーパーも多く便利な立地だ。深夜営業のスーパーでミネラルウォーターと明日の朝食のパン、サラダチキンを買ってマンションへ戻った。

 烏鵲堂からここまで無事に辿り着けたことにホッと胸を撫で下ろす。


 ソファに座り、黒のUSBメモリをノートPCのスロットに差す。パスワードロックは高谷が解除しており、すぐにフォルダが開いた。香月は薬剤溶出性心臓ステントの治験についての文書を読み込む。薬剤には脂質異常を抑制することで血栓の発生を防ぐ効能がある。実用化されるなら確かに有効だ。

 しかし、どんな薬にも副作用がある。


 心臓血管外科の馬場医長がこの治験について、実用化はあと一歩だと誇らしげに話していたことを思い出す。しかし、香月が対象患者の炎症反応を指摘したところ、顔色を変えて画面を閉じた。それから馬場は機嫌を損ねたのか話しかけてくることはない。

「面倒なことに巻き込まれちゃったな」

 香月はひとりごちる。福永部長と馬場医長は科内でも浮いている存在だ。それ以外の科員は親切にしてくれており、居心地は良いのは救いだった。


 兄孫景の豪気な顔を思い浮かべると、心配も吹き飛ぶ。今回の件も胸を張って任せろと言ってくれた。きっと兄が助けてくれる。そのためには自分にもできることをしなければ。香月は画面に向き合い、データに目を凝らす。

 ガタン、と物音がした。香月は緊張に身をすくめる。


***


 佐川は玄関の鍵穴に工具を突っ込む。ガチンと音がして鍵が開いた。ドアを開けるとチェーンがかかっている。中津はボルトカッターを取り出し、チェーンを断ち切る。乱暴だがその思い切りと手際の良さは手慣れていることを示している。

 佐川と中津は目配せして部屋の中に押し入る。土足のまま廊下を進み、部屋の住人を探す。


「女一人か、不用心だな」

 佐川は下卑た笑みを浮かべる。リビングに明かりがついている。

「そうだ、強盗に狙われるってのは珍しくはねぇ」

 中津がリビングのドアを開ける。リビングのテーブルにはノートパソコンが一台。電源は入ったままだ。住人はトイレにでも行っているのか、人の気配はない。


 佐川がパソコン画面を覗き込む。

「な、なんだこりゃ」

 画面に映っているのは防犯カメラ映像のようだ。ドアの前に立ち、鍵を壊す佐川とボルトカッターでチェーンを切断する中津の姿が映し出されている。無精髭の佐川と鼻梁が左曲がりの特徴的な中津の顔が明瞭に認識できた。

「俺たちの映像だ、いつの間に」

「くそっ、破壊しろ」

 佐川がパソコンを掴んで振り上げる。


 不意に頭上に挙げた手首が万力のような力で締め上げられる。

「ぐあっ」

 苦痛に顔を歪めながら振り向くと、厳しい表情の大柄な男が立っていた。男はパソコンを取り上げる。取り返すために手を伸ばそうとするとさらに手首を捻り上げられ佐川は悲鳴を上げる。

「何だ、てめぇは……うっ」

 相棒の中津は長身で細身の男に喉元にナイフを突きつけられて震えている。背後に立たれたのに全く気配を感じなかったことに気づき、肌が粟立つ。


「他人の家に勝手に土足で上がり込むとは、行儀の悪い奴らだな」

 孫景が佐川の両手首をビニール紐で縛る。中津の両手も同じく封じて床に転がした。

「貴様ら何者だ」

「それはこっちの台詞だぜ」

 孫景がしゃがみ込んで佐川の髪を引っ掴む。

「さて、目的を教えてもらおうか」

 孫景の問いに佐川も中津もふてぶてしく顔を背ける。悪人顔の二人は相当場数を踏んでいることが伺える。


 曹瑛は赤い柄巻の軍用ナイフ、バヨネットを弄びながら静謐な夜の湖のような瞳で侵入者を見下ろしている。佐川がちらりと曹瑛を見上げ、すぐに目を逸らす。この男は同じ世界、つまり裏社会の人間だ、と直感した。

「あいつ料理をするんだよな」

 孫景が冷蔵庫を開ける。棚には中華調味料が並んでいる。

「お、なかなかパンチがあるのを使ってるな」

 瓶入りの調味料を手に取る。火辣醤フォーラージャンと書かれた真っ赤なパッケージだ。


「これが一番効くんだよな」

 孫景が火辣醤の瓶の蓋を開けると濃厚な香辛料の匂いがリビングに充満する。孫景は引き出しから見つけたゴム手袋を嵌め、白い歯を見せながら振り返った。


***


 嗚咽と鼻水を啜る音、時折激しい咳が響く。佐川と中津は顔を真っ赤にして滂沱の涙を流している。

「もう勘弁してくれ、げほっ」

 佐川が激しく咳き込む。

「これ以上は俺たちも知らねえんだ」

 中津はゆるゆると頭を振る。先程まで虚勢を張っていた男たちの情け無い姿に、孫景と曹瑛は顔を見合わせる。

 二人の鼻の下には火辣醤がべったり塗られていた。呼吸をすると否応なく激辛香辛料を吸い込むことになる。粘膜と器官を刺激し、涙と鼻水、咳が止まらない。


「記念撮影だ。日本ではハイチーズってか」

 孫景がスマートフォンで涙と鼻水まみれの二人を写真に収める。

「金輪際、ここには近づくな」

 曹瑛の静かな口調に二人は怯えて肩を寄せ合う。孫景に部屋から蹴り出されて転がるように逃げ帰った。

「終わった?」

 隣の部屋に避難していた香月が恐る恐るドアから顔をのぞかせる。


***


「奴らは東征会伊原組の構成員だ。USBメモリを奪うのが目的で来たらしい」

「日本のヤクザってことね」

 香月は事態が悪くなっていることに不安を抱いている。

「そうだ。ここにはもう来ないだろうが、データへの執着を考えると諦めるとは思えない」

 ベランダで煙草を吹かしていた曹瑛が呟く。


「明日、高谷たちが病院に乗り込むんだろう。何かわかるかもしれない」

 孫景も煙につられてベランダに出ていく。ラッキーストライクを取り出し、ヴィンテージライターで火を点ける。

「うん、ありがとう。私もこのメモリのデータを調べてみる」

 香月は黒いUSBメモリを握りしめる。もし、治験で不正があるなら、割を食うのは患者なのだ。そんなことは許せない。

「無理するなよ、正義感ヅラになってるぞ」

「兄貴もね」

 孫景と香月は不敵な笑みをかわす。

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