第3話
「USBメモリの中身を確認してもいいかな」
「ええ」
香月は高谷にUSBメモリを手渡す。高谷はノートパソコンのスロットにUSBメモリを挿す。画面にパスワードを入力するメッセージボックスが表示された。香月がキーボードを叩く。エンターキーを押すもエラーメッセージが表示された。
何度か試してみるが、パスワードが合致しない。
「おかしいわね、間違っていないはずだけど」
香月は困惑して首を傾げる。
「パスワードロックを解除してもいいかな」
「任せるわ、でもそんなこと出来るの」
高谷はコマンドラインを起動させ、命令を入力する。ランダムな文字列が猛烈な速さで画面を流れていく。総当たりでパスワードを解析しているのだ。
パスワードがヒットしたのか、ロックが解除されてフォルダの中身が表示された。
「すごい、本当にこんなことできちゃうのね」
「朝飯前だな、高谷は天才ハッカーだ」
驚く香月に、孫景は得意げに高谷の肩を叩いてみせる。
「香月さんの設定していたパスワードってこれ?」
「いいえ、数字だけ。複雑にすると開くのに面倒だから」
コマンドラインに表示されたパスワードは大文字小文字に数字と記号を組み合わせた複雑なものだった。
「フォルダの中身は自分のデータですか」
高谷に確認するように言われて香月はパソコン画面を覗き込む。複数のフォルダが並び、フォルダの名称は十桁の数字が並んでいる。見覚えの無いデータだ。香月は眉を顰める。
「これ、私のじゃない」
香月ははっと口元を押さえる。USBメモリは黒のシンプルな外観だ。医局のパソコンが共用であることを考えると他人のものと取り違えた可能性がある。
高谷がフォルダを開き、エクセルファイルを立ち上げる。
「これは何のデータだろう」
「検査数値ね。これが日付、採血結果の記録。フォルダの名前は患者のカルテ番号かもしれない」
USBメモリには十二のフォルダが保存されている。
「つまり、十二名ぶんの患者データってことか」
強盗を装って取り戻したいほどにこの情報には価値がある。腕組をして神妙な表情で画面を見守っていた榊は口角を上げる。
「取り違えただけなら素直に言えばいいのに」
伊織には強硬手段に出る理由が分からない。
「おそらく、穏便にすませられないほど後ろめたいものじゃないのかな」
高谷がネーミングルールが異なるフォルダに気がつき、中身を確認する。そこには製薬会社と共同で行う治験に関するファイルが入っていた。
「これは、薬剤溶出性心臓ステントに関する治験だわ」
香月の説明によると、心臓ステントは閉塞した冠動脈の血管を広げるための医療器具で、網目状の筒のような形状をしている。ステント表面に薬剤を塗り、その成分が溶け出すことで再狭窄を防ぐ働きがあるという。
「てことは、このフォルダは治験中の患者データってことか」
孫景は顎を撫でながら低く唸る。いよいよキナ臭い話だ。
「きっとそう。私が間違えてUSBメモリを持ち帰ってしまったからこんなことに」
香月は深い溜息をついて項垂れる。
「奴らの狙いはそのメモリだな」
壁に背を預けて立つ曹瑛が格子窓の隙間からすずらん通りを見下ろす。先ほどから路地にじっと佇む人影があった。時々烏鵲堂のカフェスペースを見上げては手元のスマートフォンを操作している。
「尾行されている。よほどご執心のようだ」
曹瑛の言葉に香月は不安げに兄の顔を見つめる。
***
「まったく何をやっているんだ」
医局のカンファレンスルームに怒声が響く。心臓血管外科部長の福永が部下である医長の馬場を叱りつけている。
福永は江戸川医学研究所付属病院に二十五年間勤務するベテラン医師だ。気難しく傲慢な気質で、配下の医師やコメディカル、出入り業者に対するパワハラまがいの言動が度々問題になっていた。年間多数の手術をこなし病院経営に貢献している実績は無視できず、病院長も強く言えない状況だ。
「すみません、カツラギ製薬に手を回してもらっているんですが」
馬場は目線を床に落として平謝りしている。福永に取り入って姑息に立ち回ることから腰巾着だと揶揄されている男だ。
「カツラギはこういうときの人脈を持っているんだろう」
つまり、裏社会の人間との繋がりだ。
「はい、そいつらも動かしているらしいのですがまだ報告はありません」
福永は馬場の返事を聞き終わる前に、苛立ちを露わにデスクを殴り付ける。
「お前は間抜けだ。孫香月から必ずデータを取り返せ」
馬場が医局のパソコンのスロットに差したまま抜き忘れたUSBメモリを孫香月が自分のものと間違えて取り込んでしまったのだ。中にはカツラギ製薬が持ちかけた心臓ステントの治験参加患者の検査データが入っていた。
「しかし、あのUSBメモリはパスワードが設定してありますし」
「馬鹿か貴様は」
福永は馬場の脛を蹴り飛ばす。
「些細なリスクも逃してはならん。だからお前は詰めが甘いんだ」
脛を押さえて悶える馬場を冷えた目で一瞥し、福永はデスクに向かった。
孫香月は心臓治療を学びに中国から留学してきた医師だ。勉強熱心で馬場の行っている治験にも興味を示していた。
治験はうまくいっているという馬場に、香月は検査データの数値が悪化している患者を指摘した。これは馬場には都合が悪い事実だった。患者の治験データを格納したUSBメモリを持ち帰ったのは偶然ではなく治験を邪魔するためではないか、と福永は疑っている。
治験が成功すれば、カツラギ製薬からの謝礼が入ることになっている。治験は馬場を筆頭に福永がコンサルタント役で名を連ねている。臨床検査の結果を都合の良い解釈にすることはお手のものだ。カツラギ製薬との密な「信頼関係」はもう十年になる。
「中国の小娘に邪魔などさせんぞ。早くカタをつけろ」
福永は険悪な顔をさらに醜く歪める。馬場は額から流れる冷や汗をそのままに、カツラギの担当者にラインを送り始めた。
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