第2話

 黒の野球帽にマスク、黒いTシャツの男が香月に向かって早足で近づいていく。香月はその不穏な気配に気づいて身構える。男が香月に飛びかかり、手を伸ばす。狙いは肩にかけたトートバッグだ。男はトートバッグを強引に奪おうとする。

「ちょっと、何よ」

 香月は抵抗する。追いついた孫景が男の腕を掴んで捻りあげる。


「何してやがる」

 孫景の剛力に男は呻き声を上げて身悶える。

「離しやがれ」

 男は悪態をついて暴れる。孫景は男の腕をさらに急角度をつけて極める。

「うががっ」

 男の腕の骨が軋む。孫景の背後に隠れた香月をもう一人の黒ジャージが狙っている。


「そいつを寄越せ」

 黒ジャージがトートバッグを掴む。

「嫌よ、やめなさいっ」

 香月がバッグを引き寄せる。孫景が暴れる野球帽に裏拳をかます。野球帽は鼻血を吹いてアスファルトに転がった。

「ぎゃっ」

 黒ジャージがバッグから手を離す。手首に銀色に光るスローイングナイフが突き立っていた。


「く、くそっ」

 黒ジャージは半泣きでナイフを放り投げ、暗い路地の奥へ消えていった。野球帽もよろめきながら大通りに走り去っていく。

「香月さん、大丈夫ですか」

 伊織が駆け寄る。

「うん、ありがとう」

 香月は困惑しながらトートバッグを握りしめる。パンダのイラストがデザインされている帆布のバッグだ。


「この辺も物騒になったのか」

 孫景が眉を顰めて二人組が逃走した路地を見やる。

「神保町は治安が良い方なはずだけどな」

 伊織は突然の出来事に驚いている。曹瑛は路上に投げ捨てられたスローイングナイフを拾い上げ、血を振り払う。

「二人がかりで執拗、物取りにしては計画的だな」

 曹瑛は二人の引ったくりに違和感を覚えているようだ。


「宿泊先まで送るよ」

「うん、ありがとう兄貴」

 気丈に振る舞ってはいるが、香月は動揺している。孫景は香月を気遣いながらタクシーに一緒に乗り込んだ。

「気をつけることだ」

「ああ」

 曹瑛は去り際の孫景に忠告する。孫景はいつになく真剣な眼差しで応えた。


***


 二日後、閉店後の烏鵲堂カフェスペースに孫景が香月を連れてやってきた。

「あれからいろいろあってな」

 孫景は疲弊した表情の香月を心配そうに覗き込む。曹瑛がグラスに冷えたカットフルーツ入りのアイス鉄観音茶を持ってきた。

「ありがとう、美味しそう」

 色鮮やかなフルーツがまるで宝石のようだ。爽やかな鉄観音の風味と優しい甘さに香月は笑顔を見せる。


「お店の夏の人気メニューなんだ。これ、鉄観音茶を凍らせた氷なんだよ」

 伊織がグラスの中の大きな氷をストローでつついてみせる。

「なるほど、氷が溶けてもお茶が薄くならない工夫ね」

 香月は曹瑛のきめ細やかな心遣いに感心している。


「お待たせ、こんにちは」

 一階の書店を早めに店じまいして高谷が階段を駆け上がってきた。高谷がアルバイトに入る日は手が掛からず曹瑛も助かっている。

「外はサウナだぜ、こいつは差し入れだ」

 間をおかずにやってきた白いワイシャツ姿の榊は紺色のタイを緩めながら椅子に腰掛け脚を組む。すずらん通り文銭堂の紙袋をテーブルに置いた。


「孫香月です。江戸川医学研究所付属病院に留学しています」

 榊と高谷も香月に自己紹介をする。

「それで、相談てことは厄介事だな」

 榊は孫景に鋭い視線を送る。

「ああ、話してくれるか」

 孫景は香月に説明を促す。香月は兄の顔を見上げて小さく頷く。

 

「食事会の後、この通りで引ったくりに遭ったの。狙いは私のバッグだったわ。その翌朝、医局に行くとデスクが荒らされていたの」

 部屋全体がひどい地震の後のようにものが散乱していたが、香月のデスクは特に執拗に引っ掻き回されていたという。

「何か盗られたものはあったの」

「ううん、無いわ」

 伊織の問いに香月は肩を竦めてみせる。


「そして今日、朝から電子カルテがロックされて診療がストップしてしまったのよ」

 これはまだメディアに公開していないけど、と香月は念押しする。

「ランサムウェアか」

 高谷はここまでの話で即座にサイバー犯罪を特定した。

「そう、表沙汰にはしていないけどほぼ確定なんだって同僚から聞いたわ」

 病院のシステムは全てのファイルがロックされたために電子カルテから事務処理ソフトに至るまで使えなくなり、患者の診察がストップして大騒ぎとなった。


「ランサムウェアはマルウェアを仕込んでデータを暗号化し、その解除コードに金を払わせる。つまり、データが人質ってことだな」

 榊は文銭堂の紙袋を開ける。差し入れは水羊羹だ。曹瑛が無言で抹茶味に手を伸ばす。

「最近は暗号化でアクセスさせないだけでなく、取得したデータをダークウェブ、つまり闇サイトにアップロードするという二重の脅し付きで悪質さを増してるよ」

 高谷は大学で情報工学を専攻しており、昨今のシステム事情に明るい。


「私は留学生だから部外者で病院のシステム部門が対応してるみたいだからこの件については詳しくわからないの」

 香月は身の回りで立て続けに事件が起きていることに不安を覚えている。

「バッグのひったくりに事務所荒らしか。偶然でないなら犯人は何かを探しているのかも」

 伊織の問いに香月は視線を落として考える。

「それが、心当たりがなくて」

 香月はゆるゆると頭を振る。


「職場のものを持ち帰っていないか」

 水羊羹を食べ終えた曹瑛が口を開いた。香月はパンダのイラストのついたトートバッグの中を広げてみせる。

「これは書店で手に入る医学書だし、化粧ポーチに財布、スマホ」

「これは」

 高谷がペンケースに入ったUSBメモリを見つけた。

「学術論文の下書きを保存した私物よ。個人情報の持ち出しはセキュリティポリシーで禁止されているから」

 高谷はメモリスティクを凝視しながら考えを巡らせている。


「病院の医局ってなセキュリティがあるはずだろ」

 孫景が思いついて香月の方を振り向く。

「そうね、職員証がないと出入りできないわ」

「内部の人間の犯行か、もしくは職員証を不正に入手して忍び込んだか。どちらにしろ、内情を知る人間だな」

 榊が高谷に目配せする。

「病院を攻撃したランサムウェアのこと、調べてみるよ。病院の中で作業したいな」

 外部ネットワークを遮断しているため、病院内部のパソコンを使いたいと高谷は言う。

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