エピソード6 悪党に明日はない

第1話

 二階から吹き抜けの階段を覗き込むと、白いポロシャツを着た伊織と目があった。

「閉店の看板を出しておいてくれ」

 曹瑛は返事を待たずに厨房へ戻っていく。

「うん、わかった」

 伊織は階段下にある烏鵲堂カフェスペースの看板スタンドを裏返し、閉店に表示を変えた。


「実家から送ってきたんだ。差入れに持って来た」

 伊織が持って来たのは黒い帯が巻かれた細い麺の束だ。曹瑛は麺を手にして興味深く眺める。

「これは麺か、随分細いな」

「小豆島の手延べそうめん。この帯は赤と黒があって、黒帯は寒い時期に作られた麺で、弾力とコシの強さが特徴なんだよ」

 黒帯が贈答用だと聞いて、曹瑛は腑に落ちない様子だ。中国では赤色は縁起が良い色なのだ。


「東京は暑いな、日が落ちても蒸し風呂だ」

 続いてカフェスペースにやってきたのは孫景だ。ライトグレーの半袖シャツにモスグリーンのカーゴパンツ姿でしきりに汗を拭っている。ガタイはいかついが、涼やかな眼差しがその近寄りがたい印象を和らげている。


「上海もよ、もう日中なんて体温と同じ」

 孫景の隣に立つのはスレンダーな女性だ。ベリーショートの黒髪に金色の輪を重ねたデザインの大ぶりのイヤリング、オレンジ色のゆったりとしたシャツブラウスにライトベージュのボトムスにサンダル姿。ぱっちりした目元は愛嬌があるが、整えたシャープな眉で幼さを打ち消している。


「妹の香月シャンユエだ」

 孫景は照れくさそうに妹を紹介する。兄弟の一番下の妹で歳は二十九、日本には留学で滞在しているという。

「どうもこんにちは。兄貴の友達ね」

 笑顔が爽やかで溌剌とした印象の女性だ。目を細めた柔和な表情に孫景の面影が重なる。


「料理を用意する」

 曹瑛は冷蔵庫から大皿を取り出す。日中に仕込んでおいた冷菜だ。伊織は厨房で鍋に火を沸かし始める。そうめんが茹で上がるのを待つ間、ねぎとみょうがを刻んで薬味をつくる。


「素敵なお店ね」

 香月は店内をぐるりと見回す。中華ランタンのダウンライトが店内を温かく照らし、円形の飾り棚には茶器が並ぶ。艶やかな黒檀のテーブル席と、中央にソファが設えられている。調度品は落ち着いた色味で統一感があり、上質なくつろぎの空間を演出している。

 曹瑛がロンググラスに冷たい紅茶を作って持って来た。蜂蜜漬けの輪切りレモンがふんだんに入っている。


「曹瑛は烏鵲堂のオーナーで料理が得意だ」

「素敵なオーナーにお洒落なお店ね。兄貴にこんな友達がいるなんて意外」

 香月は頬杖をついて楽しそうに微笑む。

「どういう意味だよ」

 孫景はおどけてふて腐れてみせる。曹瑛が厨房から大皿料理を運んでくる。伊織は茹で上げたそうめんを氷をひいた桶に入れてテーブルの中央に置いた。

 

 拍黄瓜はきゅうりのたたきで、ニンニクとごま油の風味でさっぱりとした夏のおつまみの定番だ。胡麻だれほうれんそう、蒸しなすのピリ辛和え、ピータン豆腐、口水鶏に冷しゃぶサラダ、蒸し鶏とトマトの香味醤油。ふわふわ卵のニラ玉は作りたてだ。テーブルいっぱいに料理が並んだ。

「おいしそう、いただきます」

 香月は懐かしい中国家庭料理を前にして満面の笑みで手を合わせる。夏野菜を使った料理は色鮮やかで見た目にも華やかだ。


「浙江省縉雲の郷土料理、土面にとても似ているわ」

 香月は桶からそうめんを掬い上げる。聞き慣れない地名に首を傾げる伊織に、縉雲は上海から四百キロほど南下した場所だと曹瑛が説明する。

「麺が透き通ってきれい。それに歯触りがいい」

 あっさりした鰹だしのつゆで食べるそうめんは人気だ。曹瑛と孫景が競い合って掬い上げる。伊織は追加の麺を茹でる準備を始めた。


「普段は上海総合医学中心で働いているんだけど、四ヶ月のあいだ江戸川医学研究所付属病院に留学しているのよ」

 杏仁豆腐も曹瑛の手作りで、濃厚でとろける口当たりに香月は思わず微笑む。烏鵲堂の人気メニューだ。夏らしくマンゴーを載せている。

「専門は心臓血管外科なんだと」

 孫景が補足する。その表情は誇らしげだ。


「香月さんは医者なんですね。心臓血管外科ってことは心臓の手術をするんだ」

「そう、まだまだ勉強中だけどね」

 香月は医療先進国である日本で心臓外科手術を学ぶために来日したという。そのために日本語を学んだ香月の向上心に、伊織はひたすら感服の思いだ。


「どうして医者になろうと思ったの」

「私ね、右心室と左心室の間の壁に穴が空いていたの。心室中隔欠損症という先天性、つまり生まれつきの心臓の病気よ」

 香月はバッグからメモ用紙を取り出し、心臓の図解を始める。

「心臓には四つの部屋があって、穴が空いてるのはここ。穴が大きいほどこうやって、肺に負担がかかるのね」

 普段から患者にこうして説明するのだろう、知識がない伊織にもイメージができる。


「自然に穴が閉じることもあるけど、穴が大きいままだと子供でも肺高血圧や心不全になる」

 だから手術が必要だった。孫家は片田舎の貧しい農家だ。子供に心臓手術を受けさせる金を用意することはできない。

「元気に走り回ってた香月がちょっと歩いただけで息切れしているのを見るのは心苦しかったよ」

 孫景は当時の辛い思い出を振り払うように青島ビールを一気に飲み干す。


「でも、今は元気」

 香月は明るい顔で胸を叩いて見せる。

「手術、できたんですか」

「そう、兄貴のおかげでね」

 香月が孫景をみやる。

「兄貴は手術費用を稼ぐために、汚れ仕事でお金をかき集めてくれたんだ」

「汚れ仕事ってな聞き捨てならねえな。これでも仕事は選んでるぜ」

 孫景は気まずそうに頭をかいている。孫景が黒社会に足を踏み入れたのは妹の命を救うためだった。伊織は孫景のことを何もしらないと改めて思う。


 心臓手術のおかげで、香月は健常者と変わらぬ生活を送れるようになった。命を助けてもらったのは天命と、心臓の病気で苦しむ人を助けるために医者を志したという。

「自慢の兄貴なのよ」

 香月は孫景を誇りに思っている。伊織は兄妹の間に深い絆を見た。曹瑛は腕組をしたまま沈黙しているが、軽口を挟まないのは何か思うところがあるのだろう。


***


「今日はありがとう。素敵な一日だったわ」

 香月は大きく手を振る。千代田通りでタクシーを拾うためにすずらん通りを歩き出した。曹瑛が微かに眉を顰める。シャッターを下ろした画廊の影に男が佇んでいるのが見えた。男の視線は香月を追っている。

 曹瑛の殺気に気付いた孫景が香月を追って駆け出した。

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