第9話
クリスマス当日、アートギャラリーすばるは午後五時に営業を終了し、榊は最後の商談客を扉まで見送る。入れ替わるように耀子がやってきた。
「昨日は本当にありがとうございました」
ライアンと榊に深々と頭を下げ、恐縮しながらお礼の菓子折を手渡す。
「君が無事で良かった。来てくれてありがとう」
ライアンは耀子を展示スペースへエスコートする。昨夜、無法者のジェイソンたちに誘拐され怖い思いをしたはずだが、耀子は気丈に振る舞っていた。
「ショーンのアトリエには何度か招待されて、お互いの目指すアートの話は尽きませんでした」
年が二十も離れたショーンとは気が合ったのだという。耀子は幻想的な発想を織り交ぜた写実系の画風を得意としており、豊かな発想力をショーンは高く買ってくれた。
「彼はアートを志す若者たちにチャンスを与えたいと常々話していました」
「その話は聞いたことがある。若者に本物の作品を見る機会や、学びの機会を与えたいと」
ライアンは耀子の話を聞き、真剣に相づちを打つ。
「私は片親の家庭で、生活に必死で美術大学や専門学校に通うこともできなかった。それでもアートの世界に憧れて、独学で苦労したんです。今は少しは美術界で名前を知ってもらえるようになって」
耀子は環境からチャンスに恵まれない若者が夢を諦めないで済むよう、ボランティアの絵画教室を開きたいという。
「ショーンも若い頃は苦労したから、君の想いに共感したんだろうね」
ライアンと耀子はスポットライトに照らされた一枚の絵の前に立つ。ショーンが晩年に描いた作品だ。五十号キャンバスの一面に美しい薔薇が咲き乱れる様子が描かれている。傍に立てば、甘い香りが漂ってきそうな迫力と情感のある絵だ。
「ショーンは依頼を受けた抽象画の合間に、とても丁寧にこの絵を描いていたそうだ」
「とても美しいわ、彼のアトリエに咲いていた薔薇を思い出します」
耀子は精密な筆致の薔薇の絵を見つめる。タイトルは「ドリームガーデン」と記されていた。
「ショーンから届いたのは、招待状だけでは無かったね」
ライアンに言われ、耀子はバッグからケースを取り出した。
「ええ、これなんですけど」
ケースを開けると、金縁の眼鏡が入っていた。
「私が絵を描くとき、眼鏡をかけるのをショーンは知っていました。ショーンから届いた眼鏡をかけてみましたが、薄く色がついていてこれで絵は描けません。度も合わないし、いったいどうしてこんなものを」
耀子は不思議そうに眼鏡を見つめる。
「薔薇の香りのたゆたう庭で、君の夢が叶うことを願っている……ショーンのメッセージだね。眼鏡をかけてみて」
ライアンに促され、耀子は戸惑いながら手にした眼鏡をかけてみる。見た目は何の変哲も無い色つきサングラスだ。顔を上げてドリームガーデンを見た瞬間、目を見開いた。
「絵に、文字が」
耀子は眼鏡をずらして再び絵を見る。すると文字は見えなくなった。
「これは一体」
耀子は呆然と美しい薔薇の絵を見つめる。
「ショーンの最後の悪戯のようだ。その眼鏡には偏光レンズが仕組んである。絵に仕込まれた特殊インキが反応して見える仕掛けなのだろう」
ライアンは耀子が招待状の他に眼鏡を受け取った、と聞いたときこの展示会で一点だけ写実的技巧で描かれたドリームガーデンのことを思い出した。
ショーンは抽象画で名を馳せてしまったが、実のところ写実的な絵にこだわりを持っていた。晩年に描いた薔薇の絵に彼は最後のメッセージを残したのだ。
ドリームガーデンに記されていたのは、彼の莫大な資産の在処だった。銀行口座、未公開の絵が収納されている倉庫。資産は各方面への寄付、残りを秋野耀子とライアンで分配するよう書かれていた。
「私にそんな」
耀子は思いがけない展開に立ち尽くす。
「君の夢を叶えることが彼の夢でもあるんだ」
ライアンの言葉に、耀子はドリームガーデンを前に、熱い涙を一筋こぼした。
***
「大金持ちの考えることってわかんないね。もしあの絵の秘密に気が付かなかったら遺産はそのまま焦げ付きじゃん」
すばるの事務室で、高谷は顛末を聞きながら紅茶を啜る。
「遺言状を託した弁護士も甥のジェイソンに狙われる、それを危惧して考えた策だったのだろう。それに、こいつに任せておけば上手くいくと信じていた」
榊は優雅に脚を組んでブルーマウンテンを飲むライアンをチラリと見やる。面倒さくさい男だが、恐ろしく頭が切れるのは確かだ。
「私はニューヨークに彼の名を冠した美術振興財団を作るよ、彼からは生前希望を聞いていた。若者に本物のアートに触れる機会を、そして学びの機会を与えたいと。私はその点で彼と意気投合していたんだ」
金の使い道はショーンの遺志を継ぐ、とライアンは言う。耀子もそのつもりだと確信している。
面倒な法的手続きはライアンがすべてこなし、耀子には金を振り込むことにしている。周到なショーンのことだ、きっとそれを見越してライアンを指名したに違いない。
「そろそろ時間だな、店の前に車を回してくる」
榊が立ち上がり、コートに腕を通す。
「クリスマスを君と過ごせて嬉しいよ」
ライアンは榊を見つめ、目を輝かせる。榊は動揺してBMWのキーを床に落とし、慌てて拾い上げた。
「みんなと、だからねライアン」
高谷がライアンの腕をつついて釘を刺す。
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