第8話

 ミゲルは巨漢で、上半身が異様に発達している。ミゲルとライアンの身長差は十センチほどだが、ウエイトは明らかに違う。鍛えてはいるものの、細身の部類に入るライアンとは二十キロの差はくだらないだろう。


「気取ったセレブ野郎が、ひねり潰してやる」

 ミゲルは拳を握りしめ、ライアンを威圧する。

「八つ当たりで劣等感をぶつけられるのは心外だね」

 ライアンは涼やかな表情を崩さず、ミゲルを挑発する。


「その余裕がいつまで持つかな」

 一歩引いて観戦するジェイソンはライアンのすました顔が苦痛に歪む様を想像して、皮肉たらしい笑みを浮かべる。耀子は首筋にナイフを突きつけられ、震えながらライアンの身を案じている。

 ミゲルが拳を繰り出した。体重を乗せた重いパンチだ。まともにヒットすればひとたまりもない。ライアンはバックステップで身をかわす。


「ただの筋肉ダルマではないようだ」

 ライアンは風圧で乱れた前髪を整える。

「俺は元世界ランカーのボクサーだ。全身の骨を粉々にしている」

 ミゲルは素早いジャブを繰り出す。ライアンは後退しながらミゲルの拳を避ける。ミゲルがフェイントでアッパーカットした。ライアンは大きく仰け反り、バランスを崩す。


「もらった」

 ミゲルが大きく振りかぶる。ライアンは瞬時に身を屈め、ミゲルの膝に鋭いローキックを食らわせた。

「ぐわっ」

 ミゲルが激痛に膝を折る。拳のガードが解けた。ライアンはミゲルの鳩尾に容赦無くストレートを繰り出す。

「げふっ」

 ミゲルが腹を押さえてよろめく。ライアンの拳はクリーンヒットした。しかし、鎧のように腹筋を鍛え上げたミゲルがあれほどのダメージを食らうだろうか。


 ライアンは軽いステップを踏み、ミゲルの顔面に拳を叩き込んだ。ミゲルはそのまま背後にぶっ倒れた。鼻がめり込み、顔中血塗れだ。

「普段、ダイエットでこなしていたボクササイズが役に立ったよ」

 ライアンは拳に巻いたスカーフを解き、石の塊を放り投げる。ライアンの拳に破壊力があったのは、石を握り込んでいたからだ。


「汚えぞ、ライアン」

 ジェイソンが叫ぶ。

「馬鹿か、貴様は。これはボクシングの慈善試合ではない」

 ライアンは冷酷な表情でジェイソンを見据える。その瞳に宿る殺気にジェイソンは口籠もる。

「調子に乗りやがって」

 仲間がやられ、風向きが悪くなったことに焦りを覚えたトニーがコンバットナイフをライアンに向ける。


「ライアン、どいてろ」

「英臣、私のために」

 榊は感激するライアンを無視して、トニーの前に立ちはだかる。ライアンは感激に頬が紅潮し、胸が高鳴るのを抑えきれない。榊の背中を熱の籠もった瞳で見つめている。榊は背後に感じる強烈な悪寒を振り払い、トニーに集中する。


 トニーは榊を値踏みしながら、コンバットナイフの刀身を見せつける。

「丸腰だからって容赦はしないぜ」

「ああ、気にすんな。かかってこいよ」

 榊は口角を吊り上げ、挑発する。構えも取らない榊に苛立ち、トニーはコンバットナイフを低く構えて突進する。


 榊は左脚を軸に身体の中心線をそらした。背中に手をやり、鉄パイプを引き抜き、トニーの腹を突いた。

「ぐふっ」

 トニーは腹を押さえてよろめく。榊は鉄パイプを横に薙ぎ、トニーのこめかみに撃ち付けた。トニーは脳震盪を起こしてよろめく。


「卑怯な奴だ、そんなものを隠し持っていやがったのか」

 ジェイソンが歯噛みする。

「卑怯もへちまもあるか、これは喧嘩だ」

 榊は袈裟懸けにトニーの肩口に鉄パイプを振り下ろした。トニーは膝を折り、そのまま正面に倒れて動かなくなった。


「女がどうなってもいいのか」

 ジェイソンは胸元からベレッタを取り出し、耀子を狙う。しかし、そこに縛り付けていたはずの耀子の姿はなく、パイプ椅子だけがぽつねんと残っている。

「畜生」

 ジェイソンはなり振り構わずヒステリックな叫び声を上げる。銃口をライアンに向け、引き金に手を掛けた。

「ぎゃっ」

 次の瞬間、ジェイソンは身体を仰け反らせてベレッタを取り落とした。ジェイソンの手首には銀色に光るスローイングナイフが突き立っている。


 積み上げられたコンテナの上に黒い長身の人影が見えた。

「うぐぐ」

 ジェイソンはナイフを引き抜き、派手に出血する傷口を押さえながら落とした銃を拾おうと手を伸ばす。その手を革靴が踏み抜いた。

「ぎゃああっ」

 開いたままの傷口を容赦なく踏みにじられ、絶叫する。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を上げると、氷のような笑みを湛えたライアンの顔があった。


「私はグローバルフォース社CEOでもあり、ハンターファミリーの一員だ。今回の展示会は私が個人的に動いているが、ファミリーの仕事の一環だ。貴様はそれを邪魔したことになる」

 ジェイソンの顔がみるみる青ざめる。ライアンはニューヨークの一大組織ハンターファミリーのゴッドファーザー、ロイの息子だったのだ。まさか、優良企業のCEOがマフィアの幹部なんて、思いも寄らなかった。


 マフィアの報復の恐ろしさはよく知っている。ジェイソンは錯乱し、嗚咽を漏らし始める。

「叔父の遺産の件から大人しく手を引くかね」

 ライアンの紳士然とした態度に、ジェイソンは底知れぬ恐怖に身を震わせ、何度も頷く。

「もし、君が再び彼女に手出しすれば、君に自分と家族、飼い犬の墓穴を掘ってもらうことになる」

「わかった、許してくれ、二度と彼女には近付かない」

 ジェイソンは頭を床に擦り付け、震えている。脚の間から湯気が立ち上っている。恐怖のあまり、失禁したようだ。


「終わったか」

 廃倉庫の外で曹瑛がマルボロを吹かしている。物足りないと不満そうだ。

「お、一本くれ」

 榊は曹瑛からマルボロをもらい、運動後の一服とばかりうまそうに吸い始めた。

「温かい飲み物買ってきたよ」

 伊織がホットの紅茶を耀子に手渡す。曹瑛と伊織は榊から連絡を受け、Ninjaを飛ばしてここへやってきた。トニーが榊に気を取られた隙に、高谷と伊織で耀子の縄を解き、倉庫の外へ連れ出したのだ。


「ありがとうございます。こんなことに巻き込んでしまって」

 耀子は恐縮してライアンに深々と頭を下げた。

「君はショーンの大切な友人だ。無事で良かった。そうだ、明日も展示会に来てくれないか」

 ライアンは柔和な笑みを浮かべる。

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