第2話

 目の前には青い海と白い入道雲をくっきり隔てる水平線が広がっている。真夏の太陽は水面に反射して水晶の欠片のような煌めきを放つ。


 都内から榊のBMWで一時間半、神奈川県小田原市にある御幸の浜にやってきた。

 烏鵲堂は臨時休業の看板をかけてきた。高谷が店のインスタグラムアカウントを作り、まめにお知らせを更新している。

 急な休業もインスタグラムで発信しているので、常連客には感謝されている。


 朝九時とあって、浜辺には海水浴客はまばらだ。海の家で庇付きの休憩スペースをひと区画借りた。

「きれいな浜辺だ」

 ブルーを基調にしたサーフパンツに着替えた伊織は、澄んだ波の打ち寄せる海岸に感激する。


 故郷は内海に面しており、波は穏やかだが海岸には海藻や流れ着いたゴミが打ち上げられて雑然としていた。それが子供の頃から見慣れた風景だった。

 浜辺とは致し方なくそういうものだというイメージがあったので、目の前に広がる御幸の浜の美しさに驚くばかりだ。


「そうだろう、ガキの頃によく泳ぎにきた」

 榊は懐かしげに遠い水平線を眺めながら波打ち際に立つ。日頃から筋トレを欠かさない引き締まった身体に、ストイックな黒の競泳水着はよく似合う。

「海を見たのはここが初めてだった」

 高谷は七歳の頃、都内の母の元を離れ榊原家に引き取られている。当時、高校生だった榊の自転車の後ろに乗って初めて見た海は記憶に鮮やかだ。


「泳ぎを教えてやったのに、なかなか上手くならなかったな」

「カナヅチからは脱却したよ」

 榊は歳の離れた弟を揶揄う。朗らかな兄の笑顔が眩しく思えて高谷は目を細めた。


「あの灯台までよく泳いだ」

 榊が指差す先に赤色の小さな灯台が見えた。夜中にバイクを走らせこの浜辺に来て、真っ暗な海を光を目指して泳いだことが懐かしい。

「さほど距離はないな」

 榊の横に曹瑛が並び立つ。布地が極限まで少ない榊に対して、曹瑛は首から足首までをガードするスイムスーツを着込んでいる。


「俺は追っ手に追われて氷の浮かぶ松花江を泳ぎきったことがある」

 曹瑛が腰に手を当てて灯台を見つめている。

「俺が初めて灯台まで泳いだのは中坊のときだ」

 曹瑛の挑発を受けて榊は鼻を鳴らす。

「やるか」

「吠え面かくなよ」

 曹瑛と榊は睨み合いながら大股で海に足を踏み入れる。


「また始まった」

 高谷は波間に遠くなっていく二人の背中を見送りながら呆れている。

 何かと大人気ない張り合いをしている榊と曹瑛のことが実のところ羨ましい。互いに力が拮抗しているからこそ張り合うこともできるのだ。

「俺はこの辺で泳ぐよ」

 伊織はのんびり波に漂い始めた。


***

 

 昼前になると家族連れも増えてビーチは賑やかになってきた。海の家も大盛況で、カラフルなかき氷を手にした子供たちがはしゃいでいる。ビールにイカ焼き、焼きそばと飛ぶように売れている。


 曹瑛と榊は休憩スペースに腰を下ろし、肩で息をしながらぐったりしている。互いに意地を張り合いながら全力で泳いだのだろう、もう軽口を叩く元気もないようだ。

「ずいぶん頑張ったね」

 伊織が冷たいウーロン茶を差し出す。榊と曹瑛はそれを無言で一気に飲み干した。


「藤原の顔を見に行かないとな、この辺でラーメンを売っていると聞いた」

 ようやく息が整った榊はそもそもの目的を思い出す。藤原は柳沢組の元若衆で、榊の部下だった男だ。組が解散した後、29歳で一念発起して独立起業すると意気込んでいた。


 この暑いのにラーメン屋が流行るのかと思いきや、海に入って冷えた身体に熱々のラーメンは意外と人気があるようだ。

 汁なし坦々麺の豪快な手書き看板の前には長蛇の列が並ぶ。店員の手際が良いのか回転は良く、列はどんどん消化されていく。


「頑張ってるな、藤原」

「カシラ!いや、榊さん。来てくれたんですね」

 榊の顔を見つけた若者が目を輝かせる。日に焼けた健康的な肌に太い眉、丸い目と小ぶりの団子鼻はたぬきのような愛嬌があった。

 タオルを頭に巻いて汗だくで麺を茹でながら接客をしている。


「店が落ち着いたら挨拶に行きます」

 藤原は感激して涙ぐんでいる。

「ああ、あの席を借りてるよ」

 榊は四人分の坦々麺を受け取った。

「暑い日に辛いものを食べるのもおつなもんだね」

 伊織は額から汗を流しながら麺を啜る。コシのある麺に山椒の効いた肉味噌とネギがたっぷり、見た目はシンプルだが深い味わいがある。

「本場に負けない味付けだ」

 曹瑛は激辛を注文して涼しい顔で食べている。


 休憩ブースを見回すと、坦々麺は人気のようだ。子供も食べているのは辛いものが苦手な人向けに肉味噌ときゅうりの組み合わせも用意しているからだ。

「なかなか考えているじゃないか」

 榊は藤原の気配りに感心する。値段もリーズナブルで提供も素早い。藤原の大雑把だが温かみのある接客は人に好かれるだろう。サービスの質も良いと感じた。


 食後のかき氷を食べているとき、藤原が榊を訪ねて休憩ブースへやってきた。

「榊さんもお元気そうで、バリバリやってるって聞いてますよ」

「まあな、コンサルが天職なのかは悩むところだが、楽しくやってるよ」

 榊はクーラーボックスから冷えた缶ビールを取り出し、藤原に投げてやる。


「俺、いつか汁なし坦々麺の店を出そうと思ってるんですよ」

 藤原は海を見つめながら夢を語る。

 柳沢組が解散となって、藤原は路頭に迷うことになった。カタギになろうとも、元やくざのレッテルはあまりに重かった。

 ようやくありついた廃品回収の仕事でも遠巻きに後ろ指をさされた。


 それでも辛抱して仕事を続け、金を貯めてラーメン店を開こうという。

「店を出すときは榊さんに相談しても良いっすか」

「ああ、もちろんだ。最高の店にしてやる」

 それを聞いて藤原は屈託のない笑顔で喜んでいる。かつての弟分が夢を持って真っ当な人生を歩もうとしていることに榊は目頭が熱くなった。

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