エピソード2 真夏の水平線
第1話
強烈な夏の日差しが石造りのレンガをじりじりと焦がす。黒いアスファルトに比べるとマシな方だが、道路から立ち上がる熱気は視界の先に蜃気楼を産みだしていた。
照り返しの眩しさに榊は目を細め、額から流れる汗をハンカチで拭った。緑生い茂る街路樹にとまる蝉は鳴き疲れることを知らず、命の限り声を張り上げている。
お茶の水に新規開業するギャラリー兼カフェのプロデュースのため、ランチミーティングに参加した。料理の味も盛り付けも申し分ない、店内の雰囲気作りを上手くやればきっと成功するだろう。
榊はその足で烏鵲堂に涼を求めて神保町すずらん通りにやってきた。午後は自宅でコンセプト企画をまとめ、デザイナーを当たることにしている。
忙しいときは食事抜きで駆け回ることもあるが、こうして自由な時間を持てることは性分に合っていた。
烏鵲堂のガラス扉を開けると、糊の匂いを含んだ涼風が流れ出す。冷気に当てられ、過酷な熱気にさらされていたことを実感する。普段、営業終了後に裏口から入ることが多いので、こうして正面から入ることで妙に新鮮な気分になった。
カフェスペースへの階段を上ると、中国茶の爽やかな香りが鼻をくすぐる。
平日でティータイムまでの狭間とあってか、客の入りはまばらだ。曹瑛は榊の顔を見つけ、目線で窓際の席を示す。中華ちまきにかじりついていた白のポロシャツ姿の伊織が榊に手を振る。
「資料探しで書店巡りをしていて、遅めのランチに来たんだ」
今度の記事は秋口に向けて漢方を特集するらしい。伊織の脇に置いてある帆布のバッグには戦利品が詰まっていた。神保町には烏鵲堂をはじめ中国系専門書籍を扱っている店が点在している。伊織はマニアックな本を探すなら、まずここにやってくることにしている。
最近、烏鵲堂では限定二十食でランチを提供している。主食と副菜、プチ点心に好みの中国茶がセットで千円とリーズナブルな設定で、常連客にも好評らしい。
メニューは食材のストック状況と曹瑛の気まぐれだ。この時間にありつけてラッキーだった、と伊織は嬉しそうに翡翠餃子をつまむ。
榊はハンガーにスーツのジャケットを掛け、伊織と相席する。黒い長袍姿の曹瑛に手渡されたメニューの夏限定ドリンクが目を引いた。
「鉄観音フルーツティーを頼む」
榊は鋭い眼光で曹瑛を見上げる。もちろん、彼にケンカを売るは無い。暑気にやられて目が据わっているだけなのだ。
「わかった」
曹瑛は無表情で榊を見下ろし、短く答えて踵を返す。
カフェで注文をしているだけなのに、一触即発のハードボイルドなやりとりに見えるのは何故だろう。伊織は二人を見比べながらグラスの西湖龍井を飲み干す。
「伊織さんに榊さん、この時間に顔を合わせるのは珍しいね」
午後からの書店のバイトに入るため、高谷がやってきた。大学は夏休みで、時間を持て余しているようだ。
高谷が選んだのはグラス入りのジャスミンミルクティーだ。バイトの日はまかないでサービスをしてもらえるらしい。
鉄観音や中国紅茶のミルクティーを作るといい、というのは若い高谷のアイデアだった。邪道だと怒られるかも、とも思ったが曹瑛はすんなり承諾して今では人気定番メニューになっている。流行りのチェーン店のものより甘さ控えめなのが人気の秘訣だ。
曹瑛はテーブルに鉄観音フルーツティーのグラスを置く。冷やした鉄観音茶に新鮮なカットフルーツがふんだんに入っており、すっきりとした甘やかな風味が涼を誘う。
グラスには鉄観音茶を凍らせたアイスボールを入れ、ずっと冷たい状態が楽しめること、溶けても味が薄まることがないよう工夫が為されていた。
「漸く汗が引いた」
榊はグラスを置いて前髪をかき上げ、ホッと息をつく。
「海水浴に行かないか。御幸の浜海水浴場だ」
榊がスマートフォンの地図で場所を示す。相模湾に面したビーチで、小田原駅から程近い。
「この辺りの海水浴場って、ごった返しているイメージがあるけど」
ビーチを埋め尽くす無数のパラソルを想像して伊織は怪訝な顔を向ける。
「茅ヶ崎や由比ガ浜ほどじゃない、御幸の浜は意外と穴場だ。それにビーチも綺麗だぞ」
「御幸の浜、榊さんと初めていった海だ」
榊の故郷は小田原だ。七歳で引き取られた高谷にも思い出の場所のようだ。
「組の若衆だった奴が海の家で働いているらしい」
若頭だった榊にぜひ来て欲しいと声がかかったそうだ。
榊の所属していた柳沢組は組長の愚かな采配によるドラッグ取引失敗を原因に事実上解散した。他組織に親子の契りを求めた者もいるが、榊を慕っていた部下たちはカタギになろうと努力する者が多かった。
元極道というレッテルは、現代社会において想像以上に大きなハンディキャップになる。周囲から白眼視され、差別される対象なのだ。
それで身を持ち崩し、刑務所に入る羽目になるか組所属のチンピラに逆戻りするケースも多い。
そんな中で藤原
「スーツで会いに行くのも野暮ってもんだ。せっかく夏の海だ、ひと泳ぎしに行かないか」
「いいね、故郷では俺もよく泳いでいたよ」
海沿いの町で育った伊織にも海は近しい存在のようで、榊の誘いに賛成する。
「お前も行くだろう、結紀」
榊は笑顔で高谷の背中を叩く。
「浮き輪を持って行くよ」
高谷は苦笑いで返す。ストイックで筋トレが趣味のような兄とは反対で、身体を動かすのは苦手だった。しかし、懐かしい海の思い出に誘われる気持ちで折れた。
盛り上がっているところに、曹瑛が冷えた杏仁豆腐を持って来た。無言でテーブルに置きながら、榊をチラリと見やる。
「曹瑛、お前も来るだろう」
「行ってやらないこともない」
二人の発言はほぼ同時だった。伊織と高谷は顔を見合わせて吹き出した。
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