第4話
夕食は夜景の見えるホテルの高層階で創作和食のコースを味わいながら交流を深めた。
劉玲が普段にない体験で人生を豊かにしてほしい、と奮発したのだ。彼はこういうことには金を惜しまない。
郭秀英は伊織と話して日本語の練習をしたいと、たどたどしい日本語で懸命に話しかけてきた。
故郷は鄭州から車で二時間の片田舎で、三国志魏の軍師郭嘉の出身地でもあるという。村人はほとんど郭姓を持ち、郭嘉の子孫と自負している。
郭秀英の家は村で雑貨店を営んでおり、貧しくもつましい暮らしをしていた。
中学生の頃、テレビでルーブル美術館を紹介する番組を観て素晴らしい絵画に感動し、見よう見まねで絵を描くようになった。
片時もスケッチブックを離さず、真剣に絵を描く秀英の姿を見た祖母が才能を伸ばすために上海に留学すれば良いと資金を用立てしてくれたのだという。
高校を卒業して上海へ移り住んだ。安アパートを見つけ、アルバイトをしながら美術の専門学校へ通った。
「食っていくために店の看板を書いたり、ゲームのデザインをしたり、絵画とは違う方面の仕事もたくさんこなしたよ」
花開くことなく三十代を迎えてしまった、と自嘲する。古典絵画で名を馳せるのは難しいのだと。
「君は才能があるよ。努力家だし、諦めずに続ければきっと良い結果が出るよ」
伊織は秀英の肩を力強く叩いた。誠実な伊織の言葉に、秀英は嬉しそうに微笑む。
劉玲の意見がふと伊織の脳裏を過ぎる。上手いがただそれだけ、作家としての魅力を出せていないのだと。
純朴な彼はそれに気づいているのだろうか。しかし、こればかりは教えられてどうこうなるものではない。
あえて今は伝えないでおこう、と伊織は思った。
今日は若者たちが日本の芸術や文化に触れて生き生きしている姿の写真がたくさん撮影できたし、実りある記事が書けそうだ。
夕食会はお開きになり、蒲田の自宅アパートに帰ろうとする伊織を劉玲が引き止めた。
「伊織くん、二次会つきおうてや」
劉玲は白い歯を見せてにやりと笑う。ホテル近くの居酒屋で飲むのかと思いきや、ロビーを出たところにタクシーが待機していた。
タクシーはネオン輝くビル街を抜けてゆく。タクシーから降り立った伊織は困り顔で唇を引き結んだ。
劉玲が連れてきたのは六本木の高級クラブだ。立派な黒木の扉からして値段が張ることは想像できる。
「あの、劉玲さん、俺はしがないサラリーマンで、こんな店は場違いです」
新宿ゴールデン街にでも連れていくのかと思いきや、六本木とは。伊織は尻込みする。
「かまへん、俺のおごりや。さ、いこか」
劉玲は飄々と笑いながら扉を開ける。
劉玲はカットソーにジーンズ姿でポロシャツにチノパンの伊織とドレスコードは変わらない。その点だけは安心できた。もし追い出されるなら道連れだ。
店内は瀟洒なシャンデリアが輝き、立派なソファーのボックス席には上等なスーツの男たちが座っている。傍には結婚式かというくらい派手なドレスの若い女性や和装の淑女が座って談笑している。
この雰囲気、苦手だ。男も女も互いを値踏みしながら上辺だけの関係を楽しむ。伊織にはそんな気持ちの余裕は無い。場のハイソな雰囲気と着飾った女性に気後れしてしまう。
店内に入ると、赤いチャイナドレスの女性が出迎えてくれた。
「劉老師、欢迎你们」
女性は劉玲と顔見知りのようだ。劉玲は
「お席を用意してあります」
案内されたのは上段のVIP席だ。そこには見慣れた顔があった。
「瑛さんに榊さん」
「よう、先にやってるぜ」
シャドウストライプのスーツ姿の榊がグラスを掲げる。黒のカーディガンに白いシャツ姿の曹瑛はその隣で黙々とナポリタンを食べている。
「久しぶりやな、榊はん」
劉玲はクッションの良い臙脂色のベルベットのソファにどかっと腰を下ろす。伊織もその横に座った。
劉玲はワイン、伊織は梅酒のソーダ割りを注文する。
劉玲は美月と中国語で談笑していたが、彼女は劉玲に目配せしてふらりと席を離れた。
「で、俺たちを呼び出したってことは何があるんだろう」
榊はブランデーを傾ける。曹瑛と榊をここへ呼んだのは劉玲らしい。
「榊はん、あそこの席におる悪趣味な紫色のタイの男、知ってるか」
劉玲は斜め下のテーブルを顎で示す。紫色のタイの男は髪をポマードべったりに後ろに撫で付け、黒いシャツに白いスラックス、大股開きでソファにふんぞり返っている。
誰がどう見ても筋者だ。
「ああ、あいつもうムショから出てきたのか」
榊が眉根をひそめる。そんなセリフ、任侠映画でしか聞いたことがない。
「鳳凰会の二次団体鬼柳会の仲島だ。脅迫や誘拐で荒稼ぎをする危険な男だ。組長も奴には手を焼いていると聞く」
榊はブランデーを飲み干す。
「フルーツ盛りとアイスクリーム」
曹瑛はデザートに取り掛かっている。
伊織はその値段を見て震えている。高級クラブのフルーツ盛りは禁断のメニューと聞く。フードメニューの中で一番高い設定の店も多い。
アイスクリームもこの値段分コンビニで買えばハーゲンダッツをたらふく食べられる。経済観念がまるで異次元だ、伊織は頭を抱える。
ふと、劉玲が注視している目下のテーブルに意外な人物を見つけて伊織は目を見開いた。
「あ、あれは」
仲島が若い男に肩を組んで妙に馴れ馴れしく話しかけている。場の雰囲気に馴染めず萎縮しているその男は、郭秀英だった。
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