第2話
「待たせたな」
榊英臣が颯爽と階段を駆け下りてきた。靴音を耳にしたライアンと曹瑛が同時に勢い良く立ち上がる。ライアンは榊にハグをしようと笑顔で両手を広げる。
「会いたかったよ、英臣」
「榊、貴様」
曹瑛がライアンを出し抜いて飛びかかり、榊のネクタイを締め上げる。その様はさながら俊敏な肉食獣だ。榊は気道を締め付けられ、息を詰まらせる。
「ぐぐっ、何をする」
榊は曹瑛の腕を掴み抵抗する。曹瑛は全く怯む様子はない。怨念の宿る暗い瞳で榊を見据えている。
「この男が来ると何故言わなかった」
曹瑛は腹の底から響く低音で榊を尋問する。曹瑛にとって、オーバーアクションな愛情表現を全面に出して迫ってくるライアンは苦手とするところなのだ。
「お、お前が尋ねなかっただけだ」
「この期に及んでそんな言い訳を」
曹瑛はネクタイを引き絞る手に力を込める。榊の顔面が蒼白になる。高谷が慌てて曹瑛の腕に縋り付き、兄の息の根を止めようとする手を引き剥がそうとする。
「熱烈な愛情表現を見せつけてくれる。妬けるじゃないか、曹瑛」
ライアンはまいったな、と肩を竦める。
「瑛さんやり過ぎだよ」
見かねた伊織も曹瑛の腕を掴む。細身だが筋肉質の剛腕はびくとも動かない。榊は白目を剥いている。目の前にカラフルなお花畑が見えてきた。
「曹瑛、口元にクリームがついてるぞ」
ライアンが曹瑛の口の端についたアップルパイのカスタードを見つけ、拭おうと手を伸ばす。
「や、やめろ……!!」
頬に触れた冷たい指に曹瑛は我に返り、榊のネクタイを手放した。高谷はホッと胸を撫で下ろす。
「げほっ、クソッタレ、本気で締めやがった」
呼吸が許された榊は正気に戻る。
「俺を謀るからだ」
曹瑛は膝立ちで肩で呼吸をする榊を覚めた目で見下ろしながら、口元についたカスタードを拭い取った。
***
ライアンを連れて、有楽町駅と新橋駅を結ぶ線路高架下にある銀座コリドー街の焼き鳥店「だいごや」へやってきた。榊とライアン、伊織は熱燗、高谷はビールを注文する。超下戸の曹瑛はホット烏龍茶だ。
「英臣が拉致されたなんて、知らせてくれたらすぐに駆け付けたのに」
ライアンは残念そうにつくね串にかじりつく。連絡したらこの男はプライベートジェットを飛ばしてでもすぐにかけつけただろう。そして恩着せがましく榊に迫るはずだ。ライアンを呼ぶなんて面倒すぎる、高谷は苦笑いを浮かべる。
「今回の企画展は盛況みたいだね」
伊織がアートギャラリーすばるにやってきたとき、遅い時間帯にもかかわらず来場客で賑わっており、展示している絵画には商談成立の札がいくつもついていた。ゼロの桁を指差し数えるほどの値がついた絵画がこれほど売れるとは、驚くばかりだ。
「私も共同企画が成功して嬉しいよ」
ライアンは熱燗を傾ける。
「ショーン・バーキンはアイルランド出身で、カラーフィールド系の抽象表現の画家として有名だ」
榊がライアンから日本でバーキンの追悼展をしたい、と持ちかけられたのは五月のことだ。
ショーン・バーキンは今年三月に胃がんで六十二歳の生涯を閉じた。フラットな色彩で画面を埋める抽象表現スタイルで頭角を現わした画家で、死後取引された「藍の聖域」はオークションで約二千万円の値をつけて落札された。
ライアンはバーキンが抽象表現を手がける以前、極貧の中で看板やレストランの壁画を描いていた頃からのパトロンで、バーキンもライアンには深い恩義を感じていたという。バーキンの遺志を継ぐ形で、ライアンには彼の作品を優先的に扱える権利があった。
「一番広い展示室にあった絵を見たか」
榊が伊織に尋ねる。
「うん、赤色の絵だよね」
薄いクリーム色の壁面に天井に届く巨大なキャンバスが展示してあった。真っ赤な絵の具を塗りたくった絵で、印象に残っている。
「あの絵な、三千万はくだらないらしいぞ」
値段を聞いて、伊織はヒエッと喉を鳴らした。
店の名物京風おでん盛り合わせが運ばれてきた。昆布、かつお出汁で上品に味付けされたおでんはあっさりとしてライアンの口にも合ったらしく、追加でだいこんと厚揚げを注文していた。
この店の焼き鳥は備長炭で一本一本丁寧に焼き上げており、外側はパリッと中はふんわり、炭の香ばしさも相まって美味さを引き立てている。曹瑛は焼き鳥串を全種類注文し、黙々と食べている。
「この時期に来日できて嬉しいよ」
ライアンは恍惚を榊の横顔を見つめる。榊は気付かぬふりでハツを囓る。
「明日は社の決算報告会とパーティが入っているが、明後日はフリーなんだよ」
「そうか、東京観光をするならはとバスに乗るか、予約は入れてやるぞ」
榊は店員を呼び止めてハイボールを注文する。はとバスと聞いて、曹瑛が榊を恨みがましい目で睨んでいる。
「英臣、クリスマスの予定は」
「俺は敬虔な仏教徒だからな、死んだひいじいさんの遺言でクリスマスだけは断じて祝うなというしきたりがある」
榊はライアンの誘いをみなまで言わせることなく遮断する。
「クリスマスを祝うのではない、君と一緒に過ごせる時間を祝いたいんだ。君は辛口が好みだろう、アルマン・ド・ブリニャックを用意して、キャンドルの光で二人で乾杯しよう。料理はガチョウのローストに、ホットミートパイ、それから」
「はいライアン、手羽先」
ライアンがわざわざこの時期を狙って来日したのは、榊とクリスマスを過ごすつもりためだ。兄にちょっかいを出されておもしろくない高谷が無理矢理間に割って入る。
榊は心強い弟に感謝して、ハイボール片手におでんのがんもに箸を伸ばす。
「すばるの付近で怪しげな男たちを見た」
曹瑛が濃厚な抹茶プリンにスプーンを入れながら真顔で呟く。
「なんだと」
榊は箸を止め、眉を顰める。
「欧米系の男が二人、すばるの周辺を覗っていた。俺たちが店を出るとき、俺の視線に気付いて路地に消えていった。あれほど高額な絵画だ、狙われてもおかしくはない」
「わかった、気をつけよう」
榊は頷き、神妙な顔でハイボールを飲み干した。
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