エピソード3 明日への架け橋

第1話

 煉瓦造りの緩やかな坂道の歩道を上り、五階建てビルの狭いエレベーターに乗り込む。一階はアジア地域に特化した旅行社、二階はエスニック料理店、三階にあるのが宮野伊織が勤める出版社、青華書房だ。


 青華書房は出版社の多く集まる文京区に位置する。社員は十二名、編集長の王麗鈴は40代のエネルギッシュな女性だ。社長は北京在住で、かなりの資産家らしい。

 日本と中国の文化の橋渡しをコンセプトとした季刊誌「軌跡」を発行している他、中国書籍の翻訳本、日中の芸能や文化、観光に関する書籍を制作、販売している。


 最近は日本では中華ドラマがブームで、俳優情報やドラマロケ地、物語の背景となる文化を紹介する書籍の売れ行きが良い。

 中国向けには日本の景勝地や伝統文化に関する記事が人気だ。


 小さな会社だ。伊織は「軌跡」の企画から取材、記事の執筆、写真撮影までこなす。ときにイベントにも駆り出され、マルチに活躍している。仕事内容は雑多だが、やりがいは十二分にある。


 地元大学を卒業して八年間勤めた広告代理店を人員整理で事実上クビになり、偶然引き受けた観光案内のアルバイトで中国人の暗殺者曹瑛と出会った。

 裏社会の戦いに巻き込まれるという人生最大の大事件に遭遇することになり、成り行きでハルビンのドラッグ工場を壊滅させる手助けをすることになる。


 そんなきっかけから中国文化に興味を持った。就職活動のさなか青華書房の社員募集を見つけこれも何かの縁と応募したところ、面接の熱意を買われて正職員として採用されたという経緯がある。


 地元は倉敷市、本州と四国を繋ぐ大きな白い橋と海の見える街だ。穏やかな瀬戸内の気候に抱かれ、漁師町の荒い気質に揉まれて逞しく育ってきた。

 温厚でお人よしな性格だが、漁師だった祖父譲りの熱い気性を胸に秘めている。意外と頑固で物怖じしないのはそういう所以があるのかもしれない。


「ああもう、外は灼熱だよ」

 伊織は額から流れる汗を拭いながらデスクにつく。机の上は資料やメモが積み上がり、双璧が築かれている。両隣に雪崩れることがあり、いつも同僚に怒られている。

「お疲れ、伊織くん」

 王麗鈴が華やかな柄の扇子を仰ぎながら伊織のデスクにやってきた。


 扇子から白檀の清涼感ある香りが漂ってくる。麗鈴が伊織を呼びつけずにこうして席にやってくるのは面倒な仕事を押し付けようとする前兆だ。

 伊織は警戒して眉根をしかめる。

「来週、上海から芸術協会の日中友好研修ツアーが来るのよ。伊織くんにエスコートと取材をお願いしたいのよね」

 やはり、勘が当たってしまった。


「来週って、また急ですね」

 伊織は目を見開く。

「本当は李さんにお願いしようと思ったのよ」

 李梓瑶は伊織の八つ歳上の先輩で、社歴は王の次に長い。二週間の夏休みを取って故郷の杭州に帰っている。


「編集長、忘れてたでしょう」

「来週、よろしくね」

 麗鈴は力強く伊織の肩を叩く。伊織の抗議はあっさり流されてしまった。


 上海芸術協会は上海で活躍を夢見る無名の若手芸術家を支援する非営利団体で、今回の来日は若者たちに日本文化に触れてもらうための視察ツアーだという。

 主催する旅行社のガイドが引率するが、取材を兼ねて青華書房のスタッフもエスコートをすることになっているという。


「そうそう、今回のツアー、上海芸術協会の理事もやってくるのよ。日本でいうお偉いさんというのかしら、かなりのビップよ。気難しい人みたい、出来る限り要望を聞いてあげて。それと、相当訛りが強いらしいわ」

 伊織くんならきっと気に入られるわ、と麗鈴は他人事だ。中国語の勉強にもなるわね、とにっこり笑う。


 すぐに麗鈴から転送のメールが飛んできた。ツアーの日程は二泊三日、理事と若手五人、日本の伝統芸能鑑賞、都内の観光スポットの見学が予定されていた。

「羽田空港に中国東方航空で到着か」

 曹瑛との出会いを思い出し、伊織は苦笑する。協会の理事は癖がありそうだ。ヘソを曲げないように立ち回ろう。


***


 約束の日、伊織は羽田空港の到着出口にやってきた。付近は人待ち合わせの人でごった返している。

 東方航空の到着時間は十時二十五分、飛行機は予定通りのようだ。伊織は「歓迎 上海芸術協会」と書いた紙を目印に出口付近で待機する。


 自動ドアが開いて、出口付近は一気に賑やかになる。白のTシャツにブルーのブラウスを羽織った男が伊織の手にした紙を見つけて気さくな笑顔で手を振った。

 彼の後に男性三人、女性二人がついてくる。若い五人は若手芸術家だ。


「青華書房の宮野です」

「柳泰然です。どうぞよろしく」

 柳は四十代、日本観光のベテランガイドだ。

「お、伊織くんやないか」

 聞き覚えのある声に振り向くと、そこにはTシャツに短パン姿の劉玲が白い歯を見せて立っていた。


「劉玲さん、もしかして協会の理事って」

「せや、俺や。そうか、雑誌社の密着取材スタッフは伊織くんか。よろしゅう」

 劉玲は気さくに伊織の肩を叩く。柳は伊織と劉玲が顔見知りと知って驚いている。

 劉玲は烏鵲堂店主曹瑛の兄で、上海を拠点とする黒社会の組織九竜会の大幹部だ。

 協会理事の仕事は表向きの顔のひとつなのだろう。


 麗鈴は理事は訛りが強いと言っていた。南方系の中国語は訛りがきつくて聞き取りにくいので難渋するのでは、と心配していたがなんと関西弁のこととは。

 伊織はおかしくなって吹き出した。

 



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