第5話

 曹瑛と榊はバナナボートの上にかろうじてしがみついていた。

 曹瑛はボートに背をつける格好で頭上の取っ手を掴んでいる。榊の腰を蟹挟みで掴み、榊は血の気の引いた表情で曹瑛の腰に縋りついている。 

 ボートが急旋回したとき、吹っ飛ばされそうになった榊の身体に曹瑛が瞬時の判断で脚を絡め、水面に叩きつけられるのを防いだのだ。


「た、助かったぜ」

 榊は安堵して水の滴る前髪をかき上げる。曹瑛の驚異的な瞬発力と体力がなければ高速で水面に激突し、怪我を免れなかっただろう。

「二人とも無事でよかった」

 伊織は大きなため息をついて脱力する。

「重い、早くどけ」

 曹瑛は不満げに自分の上でげんなりする榊を見上げる。


「榊さん、曹瑛さん」

 小型のモーターボートが近付いてきた。船首に心配そうな顔の高谷が見える。

「大丈夫ですか、若とご友人」

 操縦しているのは大塚だ。船縁から身を乗り出して叫ぶ。バナナボートで輩を追跡したと聞いて、急ぎ追ってきたのだ。


「さ、榊さん」

 バナナボートの上で曹瑛にのしかかり、息を荒げてぐったりしている榊の姿を見て高谷は白目を剥いて卒倒しそうになる。

 密かに慕う兄に、その気は無いとはいえこんな扇情的な姿を見せつけられるとは。嫉妬と羨望がない交ぜになり、悶々と頭を抱える。


「こちらへどうぞ」

 大塚がモーターボートを横付けした。高谷が榊の手を引き、榊はボートに飛び移る。曹瑛も軽々とした身のこなしでボートへ移乗した。

「帰りまでこいつに乗らずに済んで良かったぜ」

 榊はモーターボートに座り込み、苦々しい顔でバナナボートを見やる。


「なあ、俺たちも助けてくれ」

 ジェットスキーの上で身動きが取れなくなった金髪とタトゥー男が情けない声で叫びながら手を振っている。

「お前たちは海上保安庁が助けに来る、そのまま待ってろ」

 大塚がタバコを指に挟んで輩たちを睨みつける。

 つまり、お縄になるということだ。海の上で逃げ場を無くした輩たちはがっくりと項垂れた。


「大塚」

「これは気が利きませんでした」

 船縁に腰掛ける榊に声をかけられ、大塚はタバコとライターを差し出す。榊は大塚からのもらいタバコに火を点ける。

「榊、タバコ」

 曹瑛も便乗してタバコを受け取り、美味そうに紫煙をくゆらせ始めた。

 太陽が西へ傾き始めた。金色に輝く海をボートは浜辺へ向かって飛沫を上げて走る。伊織もジェットスキーの船首を返し、浜辺を目指す。


 ***


「若、見上げた義侠心です」

 大塚は仲間とのチームワークで窃盗犯を捕まえたことに感動している。若衆たちにお前たちも見習えと熱弁している。


「組に戻ってきてもらえませんか。若がいてくれるなら組は安泰だ。組長オヤジもきっとそれを願っています」

 白いシャツとジーンズに着替えた榊と黒のスーツ姿の大塚は肩を並べて浜辺を歩く。榊は立ち止まり、波の音に耳を傾ける。大塚は榊と同じ夕日を浴びて光る水平線を眺めながら静かに佇む。


 神奈川県西部を支配下に置く榊原組は父の榊原昭臣が一代で築き上げた。強固な地盤と忠誠心熱い組員たちをそのまま受け継ぐことができれば、さらに組織を成長させることができるだろう。

 だが、榊は親の敷いたレールの上を行くことを拒否した。人生を自分の手で掴み取りたいと思った。榊原家とは離縁し、姓を変えて榊と名乗った。思えば、自覚のない思春期の青臭い反発心だったのかもしれない。


 しかし、後悔はしていない。皮肉にも一度は父と同じ極道の世界に身を置いたが、今は実業家として成功している。すべて自分の力で成し遂げたことだ。

 ふと、このまま安泰で良いのかと、極道時分のギラギラした研ぎ澄まされた刀のような気持ちを懐かしいと思う。

 榊原組は未だ後継者が決まっていないと聞く。父は頑固者で一度離縁した息子を呼び戻すことはないだろう。親不孝者、という言葉が脳裏を過ぎる。


「大塚、俺は榊原に戻る気はない」

 少なくとも今は。榊はその言葉を呑み込んだ。

「いつまでもお待ちしています、若」

 予想していた答えに大塚は自嘲し、自分を納得させるように頷いた。榊の端正な横顔を赤い夕陽が照らしている。強い輝きを放つ眼光は父親にそっくりだ、と大塚は思う。


「榊さん、帰ろう」

 高谷の呼ぶ声がする。背後に伊織と曹瑛が立っている。

「ああ」

 榊は笑顔で振り向く。

「では、また」

「ああ」

 大塚は遠ざかる榊の背に頭を下げた。


「瑛さんがお腹空いたって」

 機嫌が悪くて面倒くさい、と伊織が小声で続ける。

「小田原はしらすが名物だ。新鮮なしらすを出す店を大塚に聞いておいた」

 榊はBMWのエンジンをかける。


「小田原うさぎというどら焼きがあるそうだな」

 曹瑛は目敏く小田和の名物スイーツに目をつけていた。

「知ってる。うさぎの絵が入ったどら焼きだ、お土産にもらっておいしかったよ」

 伊織は前職場で小田原出身の同僚が持ってきたことを思い出す。


「確か、駅前商店街の土産物屋にあるよ」

 助手席の高谷が振り返る。榊原家へ連れられてきたとき、榊に連れられて商店街を散策し、買ってもらったことを覚えている。高谷は嬉しくて、思わず笑顔になった。その時にうちに来て初めて笑った、と榊も嬉しそうに笑ってくれた。

 高谷と榊は昔話に花を咲かせる。


 翌日の新聞で、三人の海水浴場荒らしが捕まったという記事が掲載されていた。湘南や茅ヶ崎など広範囲に渡って犯行を繰り返しており、余罪が追求されているという。


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