第9話
伊織は思わぬ男の出現に目を見開く。曹瑛はマルボロをくわえたまま目を細めて竜二を見据えている。竜二はタバコの煙を肺に吸い込み、溜息と共に吐き出した。
「手始めに紅き虎を殺せ。いや、トドメは俺が刺す」
宗継海は歪な笑みを浮かべる。竜二はひび割れたコンクリートにタバコを投げ捨て、つま先で揉み消した。宗継海を横目で睨みながらゆっくりと前に歩み出る。
「瑛さん」
伊織が曹瑛に縋り付く。曹瑛は鋭い眼光で伊織を制する。伊織はその迫力に押されて不満げに口ごもる。
「お前らも下がっていろ」
曹瑛は榊と高谷を制する。
「負けるんじゃねえぞ」
榊はポケットに手を突っ込み、踵を返した。手出しはしない、という意思表示だ。大人しく観戦するつもりなのだ。
伊織は焦燥にかられる。ここへ来る前に曹瑛と立ち寄ったのは目星をつけたアパートの一室だった。そこには竜二の妻と息子が軟禁されていた。見張りのチンピラを縛り上げ、家族は別の場所に保護した。
竜二は大事な家族を人質に取られ、やむなく卑劣漢宗継海についたのだ。曹瑛を狙う暗殺者、それは彼自身だった。
しかし、今や竜二に足枷は無くなった。それを彼に伝えたら、この無用な戦いは止めることができるのに。
曹瑛は竜二と対峙する。竜二は背中から軍用ナイフバヨネットを取り出し、構える。その気迫は衰えを感じさせない。
「お前と同じ獲物だ、これでフェアだろう」
「あんたは年を取った。対等ではない、俺の方が
曹瑛も赤い組紐を巻き付けた軍用ナイフ、バヨネットを取り出す。黒光りするスリムな刀身は実用的な美が窺える。曹瑛も重心を落としてバヨネットを逆手に構える。
二人は睨み合い、急所を守りながらじりじりと身体の向きを変え、一瞬の隙を覗っている。息をするのを忘れるほどの緊迫感に、伊織は全身が粟立つ。榊も冷静に観察しているように見えて、内心穏やかではない。こめかみがチリリと痙攣している。
「どちらも手出しできない、隙が無いからだ。我慢比べに負けて先に動けば痛い目を見る」
榊は気を落ち着かせるためか、フィリップモリスを取り出し口に咥える。そのまま火を点けるのを忘れたかのように、フィルターを噛みしめたまま曹瑛の背を見つめている。
倉庫内には二人の気迫が漲り、空気は肌がひりつくほどに張り詰めている。
「この後も取り引きが控えている」
宗継海が苛立ちを露わにする。竜二の額から汗が滴り落ち、足元に雫を落とした。竜二が踏み込む。曹瑛も同時に動いた。
先程までの静の時間と打って変わったように激しい撃ち合いが始まる。凄まじいスピードで繰り出されるナイフの切先がぶつかり合い、甲鋭い金属音が響き渡る。
竜二が曹瑛の脇腹を狙えば曹瑛はそれを防ぎ、竜二の胸元を斬りつける。
竜二の攻撃が曹瑛の上腕を切り裂いた。曹瑛はバヨネットを大きく薙いで牽制する。
「瑛さんがやられた」
伊織が叫ぶ。
「いや、傷は浅い。それに曹瑛の攻撃も当たっている」
榊は冷静に状況を捉えている。
竜二が頬を腫らしている。顔を顰めて血の混じった唾を吐いた。曹瑛の放ったカウンターの肘鉄を横っ面に食らったのだ。
高谷は兄の脚がすんでのところで踏み止まったのを見た。榊も曹瑛を助けられない焦燥に駆られているのだ。
竜二は年齢の割に衰えが見えない。豪胆で自由なスタイルの攻撃に曹瑛もかなり苦戦している。
このままほぼ互角の男たちが斬りつけ合えば消耗戦になるだけだ。榊は唇を噛む。だが、ここで手出しすることを曹瑛は望んでいない。
二人とも呼吸を整えながら次の好機を伺っている。互いに致命傷には至らないものの、足元に血が滴るほどに裂傷が刻まれていく。
「強くなったな、曹瑛」
竜二が口角を上げて白い歯を覗かせる。
「あんたは俺が思うほど老いてはいなかった」
曹瑛は頬に流れる血を拭う。
まだ駆け出し暗殺者の頃、竜二の腕と度量を見て心底惚れ込んだ。こんなふうになりたいと望んだ。遠い昔のことだ。
曹瑛は青臭い憧憬が脳裏によぎり、微かな笑みをたたえる。次の瞬間、再び感情の読めぬ表情になり、夜の湖に映る凍える月のような瞳で竜二を見つめる。
曹瑛が動いた。流麗な動きでバヨネットを繰り出す。繰り出すほどにスピードが増す切先に竜二は撃ち返しに集中するしかない。
竜二の攻撃が曹瑛の腹を切り裂いた。伊織と榊、高谷は息を呑む。シャツの隙間から白い肌がのぞいている。赤い筋がすうと走り、血が滲む。擦り傷だが、精神的ダメージは大きい。
「長春を思い出す」
曹瑛の言葉に、竜二は眉間を微かに歪める。そして無精髭の口元に不適な笑みを浮かべた。
「ああ、懐かしいな。これ以上じゃれあっても時間の無駄だ、一気にカタをつけてやる」
竜二は殺気を纏い、構えをとる。曹瑛も汗ばむ手にナイフを握り直す。
二人の眼光がぶつかり合う。互いの懐に踏み込んだのは同時だった。激しくぶつかり合ったまま、微動だにしない。
「うぐ…」
竜二が腹を押さえて膝をついた。そのままコンクリートに倒れ込む。曹瑛も小さく呻いて崩れ落ちる。
「はははははは、師弟で相打ちとはなかなかの見せ物だ」
コンクリートに伏せたまま身動きしない二人を宗継海は哄笑する。そして部下に命じて持って来させた抜き身の青龍刀を構える。
「曹瑛の首を八虎連への手土産にする。伝説の紅い虎を倒したのはこの俺だ」
宗継海は曹瑛の首を狙い、青龍刀を振り上げる。
「瑛さん、そんな。やめろ外道っ」
伊織が駆け出そうとする。宗は伊織をチラリを見やり、挑発的な笑みを浮かべる。
「やめるんだ、伊織さん。俺たちにはとても太刀打ちできない」
高谷が伊織の腕を掴んで必死で引き留める。
「うわぁああっ、畜生」
伊織は号泣してその場に崩れ落ちた。冷たいコンクリートに拳を打ちつけ、肩を振るわせている。
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