第26話 幻のKノート


「防衛省特別機関、陸上幕僚監部防衛部防衛課開発室長の藤東とうどうです」


 彼は、その大きな手を菱沼に差し出した。


 ——防衛省のお役人さん。


 菱沼はその手を取って握り返す。すると後ろから萌咲が顔を出した。


「お客様ですか。私、失礼しますね。菱沼さ……」


「萌咲!?」


 聡の驚きに、萌咲も目をパチクリとさせた。


「な、なんで、あんたがここにいるのよ?」


「それはこっちのセリフだ!」


 二人は疑念の視線で互いを見つめている。菱沼は苦笑いをしてから「立ち話もなんですから。どうぞ。藤東さん。聡くん」と二人を家に招き入れた。


「私は帰ります。菱沼さん」


 萌咲はエプロンをたたむと、鞄にぎゅっと押し込んむ。


「いや、しかし。まだ話が……」


 菱沼は萌咲を引き止めようとしたが、聡は首を横に振った。


「ああ、そうだそうだ。帰ってもらったほうがいいです。こっちは大事な話をしにきたのだから」


 聡はつっけんどんな態度でそう言った。


「聡くん。そんな言い方はないんじゃないかな」


「いいんです。菱沼さん。もう用は済みましたから。ではこれで。お邪魔しました」


 彼女は頭を下げると、玄関から姿を消した。菱沼は萌咲を諦めて、二人を居間に案内した。


 二人掛けのソファに、藤東が三分の二、残り三分の一に聡が小さくなって座っている。その様子がなんとも滑稽で、菱沼は口元が緩まないように引き締めた。


「いやあ、驚きました。とてもお元気そうで。私はこう、もっと……」


 藤東はそう言った。


 ——言いたいことはわかるが。


 菱沼は無言で藤東をまっすぐに見据えた。すると、彼は首を横に振った。


「これは失礼いたしました。私はそんな世間話をしに来たのではないのです」


「年寄りはせっかちなのですよ。なにせ、残された時間が少ないものでね。それでいったい、私にどんな御用なのでしょうか」


 彼は菱沼の横に立てかけてある杖に視線を遣った。


「九九式小銃のプロジェクトチームの責任者をしております。ご挨拶が遅れてしまい、大変失礼いたしました」


 菱沼は思わず聡に視線を遣る。彼は小さく頷いてから口を開いた。


「九九式の研究は防衛省の管轄で行われているんです。ノートを見つけたからといって、おれ一人でできるものではないですからね」


 ——そこまで深く考えていなかったね。


 菱沼は自分自身の考えの甘さに、少々嫌気がさした。ついうっかり、彼が曾祖父の思いを引き継いだのだろう、くらいに軽く考えていたが、そんなはずはないのだ。


 聡はまだまだ若い。彼が研究資金をかき集めることなど、不可能に近い。彼の裏になにがあるのか。そこまで考えるべきだったのだ。


 ——この研究は国家を上げて取り組んでいる案件。


 菱沼の心の内を読んでいるかの如く、藤東は言った。


「小林くんには、ずいぶんと力になっていただきました。旧陸軍で秘密裏に進められてきた幻の不老不死研究が、長き時を超えて、こうして現代に実を結びかけているのです」


「それは私も同感ですね。まるで夢物語のような話だ。当時の私たちは、動物兵器の実験に明け暮れていましたからね。まさか、こんな研究が裏で行われていたなんて、まったく寝耳に水だったのです」


「このプロジェクトの発案者は、東京帝国大学の生物学の権威、斑目まだらめ征夫いくお先生でした。小林少尉は、斑目先生が絶大なる信頼を置いた門下生の一人です。


 彼は、病気がちだった斑目先生の意思を継いで、研究を推し進めていたのですが、関わっていたのは、梅沢陸軍技術研究所の中でも、ほんの数名だけ。しかも、関わった彼らは、みな例の空爆で死んでいる。生存者はなにも知らぬ者ばかりでした」


「それは——彼らがまるで口封じのために消されたようにも聞こえますね」


 菱沼の疑念の声に、藤東は首を横に振った。


「あの空爆は、明らかに連合国軍からのものでした。当時は、本土全体が攻撃されていましたからね。不自然なものではなかったわけですが……。まあ、事の真相は闇の中。死人に口なし――ということですね」


「否定はしない、ということだね」


 菱沼は顎に手を当てて考え込んだ。


 あの時——。突然の空襲警報に、気が緩んでいた研究員たちは、まるで士気を失っていた。なされるがまま、その場から退避させられたのだ。幹部たちを残して——。


『菱沼ー!』


 炎に包まれた研究所から、自分の名を呼ぶ小林の声が耳から離れなかった。あの時の場面は、まるで昨日のことのように何度も夢に見た。そんなことを考えていると、妙に大きく藤東の低い声が耳元で聞こえた。菱沼は我に返った。


「我々は敗戦国。戦後、旧陸軍の資料等は連合国に没収されました。その中には、当時の研究資料も多数含まれていたと考えられます。大多数のものは返還されて、今では歴史的資料となっています。しかし、その返還された資料の中にこの幻の研究資料は見当たりませんでした。空襲で紛失したのでしょう。


 そんな絶望的状況下で、小林くんが研究ノート——通称『Kノート』を見つけたことは、我々にとって大変幸運なことでした。大学はこの研究を推し進めることについて否定的であったようですが、総理の指示で研究がスタートしました。そして今や、実地実験の段階まで入っている。これは世界に誇る、我が国の素晴らしき功績であります」


「実地実験ね」


 菱沼は杖を見下ろすと、それを無造作に投げた。藤東は慌ててそれを受け取った。


「なにを?」


「私には不要なものですよ。杖ならたくさんある。もっと体力のある若者で試されるといいのではないでしょうか」


「菱沼さん!」


 聡が口をはさんだ。


「小銃をあんなに上手に扱えるのは菱沼さんたちを置いて、他にいないんですよ?」


「そうだろうか。そんなことはないよ。聡くん。自衛隊のみなさんがいるじゃないか。我々は戦争経験者とは言え、ただの素人だからね。プロにお任せしなさい。若い者がそれを扱えば、身体能力が増強される。プロがこの銃の力を遣えば、不死身で最強の兵士ができるに違いないよ」


「でも——」


「そのつもりです」と、聡の言葉を遮るように藤東は言った。




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