第7話 パワハラ上司と幼馴染




 仕事を終えて帰途に就くのは、いつも8時過ぎだった。利用者がいる間は、事務作業どころではない。彼らを帰宅させた後、やっと自分の事務処理に取り掛かることができるのだ。事務室には、萌咲もえの他にも数名の職員が残っていた。


 今日は散々だった、と萌咲は思った。事務室とフロアの間に設置されている、ガラスの仕切りに映る自分の顔は、疲労の色が濃い。


 ——こんなんじゃ、男も愛想尽かすに決まっているよね……。化粧だって、適当だし。美容室に行く暇もないじゃない。


 友人に恋人を取られたことがある。自分を裏切った、友人と恋人を恨んだが、もう今となってはどうでもいい話だったのに。なぜ急にこんなことを思い出したのだろうか。今日は散々だったのだ。それなのに萌咲の心は弾んでいた。


 ——あの人は、いったいどこの誰だったんだろう……。


 漆黒に輝く瞳。あれは、どこかで見たことがある瞳だった——。


 ——いったい、どこで?

 

 そんなことを考えていると、管理者の石桁いしげたが顔を出した。


「なんだ、まだ残っているのか? 自分の都合で残っている場合は、手当はつけないぞ」


「残業代は結構です。すみません。私の仕事が遅いからで……」


 事業所の統括をしているのが、この男——石桁だ。彼は、40歳を過ぎているだろうか。仏頂面で、人を褒めるということはしない。口を開けば、文句ばかりの男だから、職員たちからは評判がよくはない。


「仕事が遅いと宣言するなんて、救いようがないな。まったく! 今日は散々だったよ。、ではなく、この。警察には、何度も話を聞かれて。管理者である僕の身にもなってくれ。まったく。八木沢さんのご家族が穏便に済ませてくれたからいいものを。訴えられたら、こちらの負けだぞ。外出のイベントは、今後中止とする」


「すみませんでした。私の不注意だったんです。これからは、もっと気をつけますから。どうか、外出イベントを中止にしないでください」


 萌咲は慌てて席を立ってから、頭を下げる。


「萌咲くん。そういう問題ではないんだよな。キミの自己満足でやってもらっては困るんだ。楽しいから、喜ばれるから、なにをしてもいいってわけではないんだ。僕たちは、お客様の安全の確保が最優先なんだ。リスクが大きい事をわざわざ行う必要はないだろう? それよりも、外出イベント以外の楽しみ方を考えなさい。それがキミの仕事だ」


「しかし……」


「今日は、キミも僕も散々な一日だったろう。これ以上話をしても、いい結果にはならない。——お前たちも帰るんだ。さあさあ、帰った、帰った」


 居残りをしていた職員たちは、不満気な表情を浮かべて、渋々退勤の準備をし始める。その中で、萌咲は俯いた。


 ——私のせいだ。私が、もっとちゃんと見ていれば。八木沢さんが危ない目に遭うこともなかったんだから。私が、しっかりしていないから……。


「もう今日は帰りなさい。僕が戸締りをしていくから」


「でも」


「いいから。明日もあるんだ」


「はい。すみませんでした。お疲れ様でした……」


 萌咲はパソコンの電源を落とすと、荷物を抱えて事務室を出た。


 ——最悪だ!


 なんだか泣きたくなった。「萌咲さん、帰りましょう」と声をかけてきた真桜まおと一緒に、更衣室で着替えを済ませ、それから職員出入口から裏に出る。建物裏手が職員駐車場になっているのだ。萌咲は大きくため息を吐きながら、愛車である黒のコンパクトミニカーに乗り込んだ。


「よかった。無事で。萌咲ちゃん——」


 昼間の男の声が思い出される。なんだか気持ちがざわざわとした。エンジンをかけ、車を発進させようとすると、萌咲のスマートフォンが光る。メッセージアプリに表示されていたのは、幼馴染であるさとしからのメールだった。


 萌咲は軽く息を吐いてから、車を発進させ、ハンズフリー機能をオンにしてから、聡に電話をかけた。彼はすぐに応答した。萌咲からの電話を待っていたようだ。


「お疲れ~。帰り?」


「そうだよ。帰るところ」


「相変わらず忙しいねえ~」


 聡は明るい声色で笑った。それがまた、なんとも憎たらしい気持ちになるものだ。彼は萌咲と同じ年だが、大学に入り浸りで、一向に就職をする気配がない。


 ——本当に、いい身分なんだから。


 萌咲はそんなことを思いながら、聡との会話を続けた。


「萌咲の好きなじいさん。今日、利用日じゃなかったっけ。どうだった?」


「どうって……。あのねえ。利用者の情報を漏らしちゃいけないんだから、聞かないでよ」


「んな堅いこと言って」


 聡はスマーフォンの向こうで笑っている。


 ——だから、今時の男は嫌いなんだから!


 聡と話をしているというのに、萌咲の頭の中は、命の恩人である日本兵の姿でいっぱいだった。あの服装はドラマや映画で見たことがある、日本陸軍の軍服だったのではないだろうか。


 ——コスプレオタク……? それにしては……。


 優し気な瞳の彼を思い出すだけで、顔が熱くなった。


「……ねえ、聞いてるの?」


「ああ、ごめん。もう疲れたから。聡と話をしている場合じゃないんだよ。今日はもう本当に最悪で……」


「最悪って?」


「うーん。聡に言っても仕方ないし。いいや。ごめんね。またね~」


「あ、ねえ、萌咲?」


 まだまだ話をしている聡の言葉を遮って、萌咲は通話を終了した。それから大きくため息を吐いた。


「確かに散々な一日だったけれど……」


 ——その散々の中でも、いい事、あったんだけどな……。


 萌咲は口元が緩んでいることに気がついてから、自分の思いを振り払うかように首を横に振ってから、視線を前に向けた。











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