第8話 僕のお嫁さん


 薄暗い部屋に、男が一人、足を踏み入れた。男は照明をつける素振りもなく、窓から差し込む街灯の光だけを頼りに、迷うことなく目的の場所で立ち止まった。


 それから、自分の背丈よりも幾分大きい細長いロッカーの扉に手をかけると、それをそっと開いた。男は「はあはあ」と口で息を吐きながら、そのままロッカーの中に手を伸ばす。それから、ハンガーにかかっている桃色のポロシャツを掴み上げた。


「へへ。こ、これな。これ。萌咲ちゃんの、匂い……。萌咲ちゃんの匂いだ……」


 男は興奮を抑え切れない様子で、一心不乱にポロシャツに顔を押しつけた。


「いい匂いだ。萌咲ちゃんは優しいんだぁ。きっと僕のことが好きなんだから。ああ、萌咲ちゃん。僕のお嫁さんになって……恥ずかしがることはないんだから。他の人がいると、ちっとも声をかけてくれないじゃないか……。萌咲ちゃん……」


 鼻腔をくすぐる香りは、柔軟剤の匂いと彼女の体臭が混ざり合い、彼の欲望を更に掻き立てているかのようだ。


「萌咲ちゃん……明日は、僕とお話してくれるかな……。僕は全然平気なのにな。恥ずかしがり屋のところも、とっても可愛いんだけど。萌咲ちゃん。いや、『ちゃん』付けなんておかしいよね。僕たちは夫婦になるんだから。萌咲、って呼んじゃおうかな? ああ、恥ずかしい。言っちゃった。言っちゃったもんね」


 男は制服に頬ずりをし、にまにまと笑みを浮かべていた。



***



 朝7時。萌咲の出勤時間だ。相談員とは言え、現場の責任を任されている彼女は、朝一番に出勤する。


 施設裏にある職員駐車場に車を止め、そこから職員玄関へ足を運び、それから玄関の施錠を解除した。この施設は、民間のセキュリティ会社と契約しており、専用のIDパスがないと中には入れないことになっている。


 事務所に行く前に、更衣室に寄ってから身支度を整えなくてはいけない。いつも通り、萌咲は職員玄関のすぐそばになる更衣室に足を踏み入れた。いつもと同じ朝だと思っていた。だがしかし——。


 ふと萌咲は違和感を覚える。ロッカーの扉の合間から、桃色の制服が飛び出していたのだった。


「え?」


 萌咲の心がざわつく。そろそろとロッカーを開いてみるが、中は何もない。昨夜、萌咲が脱いで置いて行った制服がハンガーから滑り落ちていただけだった。しかしそれがおかしいと思った。昨日、退勤をする際、萌咲はこの制服をハンガーにかけて帰ったはずなのだ。


 制服が勝手に滑り落ちるとは考えにくい。


 ——誰かがいじった?


 萌咲の心臓が早鐘を打った。そこに後輩の真桜まおが「おはようございますぅ」とやってきた。彼女は朝が苦手だ。いつもとは違い、声の調子が低めだ。


「どうしたんですかぁ? 萌咲さん」


 ロッカーの前で固まっている萌咲の様子に気がついたのか。彼女は眠そうな目を瞬かせながら、そばにやってきた。それから、萌咲のロッカーを覗き込む。


「え? なにか? どうしたんです?」


「制服がね」


「制服が?」


「昨日、ハンガーにかけて帰ったのに。こうなっていたの」


「ずり落ちたんですよ」


「でも、滑り止めのついたハンガーをわざわざ使っているの」


「えー。じゃあ、誰かがいじった、とでも言うんですかぁ……? え! やだぁ! キモっ! 泥棒? 泥棒が入ったんじゃぁ……」


「真桜ちゃん、静かに」


「でも、やだぁ」


 真桜は眠そうだった目をぱっちり開けて、大きな声を上げた。そこに他の職員たちも次々に出勤してくる。真桜の騒ぎに、その場は騒然となる。ここまで騒ぎが大きくなってしまうと、収拾がつかない。仕舞には、管理者の石桁いしげたまでもがやってきて、何度も何度も事情を説明する羽目になったのだった。


 昨日の今日だ。「また、キミか。こんな面倒を起こして」と怒られると思った萌咲だったが、石桁は神妙な顔つきで、「それは心配だ」と言った。


「この施設はセキュリティが万全だ。施錠してしまったら、外部から部外者が入るということは、かなり困難なはずだ。しかも、キミが退勤した後ということになると、怪しい人物はかなり限られるのではないかと思うんだ」


 石桁のところに呼び出された萌咲はそう言われた。


 ——職員の中に、私の更衣室をいじる人がいるってこと?


 萌咲は、昨日一緒に残っていた職員のメンバーを思い出すが、誰が残っていたかなど、そうそう思い出せるものでもない。いつもだったら、萌咲が最後に帰ることが多いのだが、昨日は石桁から帰るように促されて、早々に退勤したのだ。


 定時を過ぎると、職員たちの帰宅はまばらだ。他の職員が残っていたとしても、更衣室が無人になる時間など、たくさんあるということだ。


 しかし、一緒に働いている職員の中で、自分のロッカーをいじる人がいるという事を考えると、なんだか薄気味悪く、萌咲は嫌な気持ちになった。


「すみません。昨日から、私。問題ばかり起こしていますね」


 石桁は萌咲を見た後、軽くため息を吐く。


「まったくだ。キミがいると、トラブルばかりだな」


「申し訳ありません」


「だが」と石桁は言った。


「今回の件はキミのせいではないだろう。もしかしたら、キミ以外にも被害に遭う職員が出るかも知れない。この件については、厳しく対応する必要がある。昨晩、居残りをしていた職員を調べてみようと思う。それは管理者である僕の仕事だ。気にする必要はない」


 もやもやとしていた不安が少し軽くなる。萌咲は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。


「気持ち悪いかも知れないけど、気持ちを切り替えて仕事をするようにね。お客様には内密で」


「わかりました」


 萌咲は頭を下げて、フロアに戻る。職員たちは、仲のいいメンバーに分かれて、今朝の件をああだこうだと話し合っているようだった。萌咲は努めて明るく、「みなさん」と言った。


「さあ、今日も一日、元気にお客様をお迎えしましょう! ほらほら。真桜ちゃん。朝礼の当番はあなたでしょう? 初めてください」


 真桜は「はぁい」と不満そうな声で返答をしてから、朝礼を開始した。施設に勤務する職員は総勢20名。事務職に始まり、介護職、リハビリ職、栄養士、調理士などだ。朝礼で整列している職員たちは、ちらちらと萌咲に視線を寄越す。萌咲が悪いことをしたわけではないのに。

 

 ——まるで私が犯罪者ね。


 萌咲は軽くため息を吐いてから、気持ちを切り替えようと、何度も首を横に振った。




 



 






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