第9話 狙われた萌咲ちゃん
菱沼はいつもと変わりなく、ニコニコデイサービスのソファに座り、新聞を眺めていた。先週、痛めた膝の調子が、やっと落ち着いてきたところだ。
菱沼にとって、先週は散々だった。市民公園で萌咲を救出した日。膝の痛みが悪化して、翌日にはかかりつけの整形外科クリニックを通院した。
付き添いをしてくれた娘には、「何歳だと思っているんですか? また無茶したんでしょう」と叱られた。確かに無茶をしたのは自己責任。怒られても当然であるのだが……。
「軍曹。おはようございます」
視線を上げると、そこには杖を抱えた飯塚と小田切が立っていた。二人は菱沼を挟んで両脇に腰を下ろす。
「からだ、辛くなかったですか」
「いやあ、酷かったね。膝が痛んで、ヒアルロン酸の注射に行ってきたよ。娘には、散々説教されたしね。ちょっと無理しすぎたね」
小田切は笑う。
「僕もですよ。マッサージ。通っていました。急に具合が悪いものだから、妻が大騒ぎ。ケアマネジャーに電話をかけて、サービスを増やそうか、なんてことになってしまって。参りました」
「元気なのは、おれだけじゃないですか」
飯塚は余裕の笑みを見せるが、「飯塚さんは、一発撃っただけですもんね」と小田切が言った。
「そんなこと言ったって、一発も二発も大して変わらんだろうが」
「飯塚さんが仕留めそこなったから、僕が尻ぬぐいをしたんじゃないですか。それにね。僕は腰が曲がっているのを伸ばしたんですよ。いいですか? 曲げていたほうが楽なのに。伸ばしたんです」
「じゃあいつも伸ばしておけってーの」
「いやね。曲げたほうが楽なんですよ」
飯塚と小田切の応酬は、決着を見ない堂々巡りだ。菱沼は「まあ、まあ」と二人の間に入った。
「しかし、小林少尉が現れるとは。彼もまた、僕たちみたいに九九式の恩恵を受けて若返っていたのだろうか?」
「少尉が生きていたら、100歳は超えていますよ。確かに、空襲に巻き込まれたおかげで、御遺体は見つかりませんでしたけど。まさか『生きていた』なんてこと、無人島でもあるまいし。今の日本でありえますか? 不可能でしょう?」
小田切は眼鏡をずり上げる。反対側に座っている飯塚は、腕を組んで唸り声をあげた。
「うう。確かにそうかも知れない。でも、あれは少尉だったよな。確かに小林少尉だった。それは間違いないですよね」
「そうだね。あのお姿は小林少尉そのものだったね」
——しかし、引っかかるのは何故だ?
菱沼は新聞を折りたたんでから、押し黙った。
「それに、これだ」
飯塚は手持ちの杖を眺める。
「この九九式の謎——」
「小林少尉は『また会おう』と言っていた。きっとまた会えるんだ。謎の答えは彼から教えてもらうしか、ないだろうね」
「そうですよね」
小田切の返答を聞きながら、菱沼はふと意識をフロアに向けた。今日はいつもとは違った雰囲気が漂っている。職員たちが顔を合わせれば、ひそひそと話し込んでいる様子が見受けられるからだ。
ニコニコデイサービスは、職員への接遇教育が徹底している事業所である。職員同士が、こうして私語を交わすなど、滅多にないことだった。
菱沼は「ふん」と鼻を鳴らしてから、面白くないと思った。それから、フロアに出てきた
——それにしても……。
菱沼は萌咲の様子を見て首を傾げた。彼女は珍しく浮かない表情をしていたのだ。彼女の様子を見つめていると、それに気がついたのか。彼女が菱沼たちのところにやってきた。
「こんにちは。みなさん、お変わりないですか」
「萌咲ちゃん。今日は、なんだか様子が変だね」
菱沼は単刀直入に質問をした。そのストレートさに驚いたのか、萌咲はきょとんと目を丸くしてから、苦笑いをした。
「やだな。菱沼さんには隠し事ができませんね」
萌咲は「これは、内緒の話なんですよ」と前置きを置いて「更衣室に泥棒が入ったんです」と、小さい声で言った。
「なんだって物騒な話だね」
菱沼たち三人は顔を見合わせた。萌咲は言いにくそうに声を潜めた。
「ロッカーにしまってある制服がぐちゃぐちゃにされていて」
「なにか盗られたのかい?」
「いいえ。それが、妙なことになにも——、あ、そっか。そうなると『泥棒』って言うには語弊がありますね」
「いやしかし。なんだか気味が悪い話だね」
「そうなんですよ。しかも、どうやら私のロッカーばかり狙われているみたいで。他の職員に聞いてみると、いじられた形跡がないって言うんです。のんびりしている子もいるから、気がついていないのかも知れませんけど……。なんだか嫌な気持ちになってしまって」
「不可解だねえ。犯人は見つかりそうなのかな?」
いつもより顔色が悪い萌咲を見ていると、精神的に追い詰められているようにも見受けられた。菱沼は心配になった。萌咲はいつも明るく振る舞っているものの、繊細なところもある。この事件に、大そう心を痛めているということは、傍から見ても理解できたのだ。
「なにも盗られていませんので、警察には言っていないんです」
「確かにそうかもしれないが……。対策はしておかないとだね」
「民間のセキュリティ会社が入ってくれているので、夜中に外部から入り込むのは難しいと思うんです」
「じゃあ、まさか。ここの職員——? もしくは利用者の中に?」
萌咲は首を横に振った。
「そんな風には考えたくないんです」
そこで飯塚が口を挟んだ。
「萌咲ちゃんは優しいからね。人を疑いたくないのかも知れないが。人間には裏の顔っていうものもあるって話だ。セキュリティがしっかりしているなら、ここにいる職員か利用者しかいないじゃない?」
萌咲の顔色が、ますます蒼ざめていく様を見て、菱沼は「この話は終わりにしようじゃないか」と打ち切った。
萌咲も「しゃべり過ぎた」と思ったのだろう。申し訳なさそうに、頭を下げた。きっと利用者には話さないようにと、管理者にでも口止めされているに違いない、と菱沼は思ったのだ。
「すみません。こんなことを菱沼さんたちにお話するなんて。相談員失格なんですけれども……」
菱沼は静かに首を横に振った。
「そんなことはないよ。僕たちはキミよりも何倍も長生きしているんだ。なにもできないけれど、話を聞くことくらいはお安い御用なんだ。なあ、みんな」
「そうだよ。萌咲ちゃん。一人で頑張っちゃダメだ」
「僕たちは萌咲ちゃんの味方だよ」
「みなさん……」
萌咲は視線を伏せた。それから、小さく笑みを浮かべてから、「ありがとうございました」と言って、立ち去って行った。
彼女の後ろ姿を見送りながら、飯塚は「ああ、これは非常事態ですね」と言った。
「あんな不安そうな萌咲ちゃんは、初めて見ましたね」
小田切も軽くため息を吐く。菱沼は、努めて笑みを作り、他の利用者たちと会話をしている萌咲を眺めながら、口元を引き締めて、低い声で言った。
「これは由々しき事態——。我々にできることをしなければなるまい」
「我々の出番ってことですね」
三人は顔を見合わせてから頷いた。
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