第31話 萌咲の新しい仕事


 ニコニコデイサービスを退職した後。萌咲は近所にある居宅介護支援事業所で介護支援専門員ケアマネジャーとして勤務をし始めた。


 介護保険とは、月々に保証の対象となる上限額というものが設定されており、利用者はその中で様々なサービスを組み合わせて利用することになる。そのため、それらを利用するための計画書の作成や、調整を介護支援専門員ケアマネジャーに依頼するのだ。


 今までは利用してもらう側にいた萌咲だが、今回は逆の立場になる。同じ分野にいても見えるものが違うし、仕事の内容も全く異なっている。新しい仕事に、四苦八苦しながらの毎日だった。


 訪問に行く予定である利用者の書類を作成し終え、萌咲は鞄に入れた。


「私、訪問行ってきます」


「萌咲ちゃん、気をつけてね」


 管理者である数田かずたに声をかけ、萌咲は事務所から外に出た。


 萌咲が担当している利用者は四十名。毎月、その四十名の管理をするのは、容易ではない。体調が悪かったり、状況が変わってしまったりすれば、計画書の作り直し、それからサービスの調整にかなりの時間が取られる。一人の利用者にばかり時間をかけてはいられないが、そうもいかないのだ。


 デイサービスとは違い、24時間365日、いつでも電話がかかってくる。介護支援専門員ケアマネジャーとは、そういった責任が伴う仕事なのだ。


 萌咲は自転車に乗り、目的の家に到着する。海外の住宅メーカーの家だ。周囲の家と比べてみると企画が一回り大きい。南プロバンス風の門に据えられている呼び鈴を押すと、インターホンからはきはきした声が返ってきた。


「はい」


「こんにちは。青砥あおとです」


「いらっしゃい。待っていましたよ。どうぞ、お入りください」


 カチッと門の施錠が外れる音がする。すべて自動式。萌咲は開いた門から中にからだを滑り込ませる。すると玄関から顔を出したのは、スミスだ。


「こんにちは。スミスさん。寒くなりましたね」


「いやあ、本当に。冬はもうすぐそこだ。どうぞ、待っていましたよ。毎月、萌咲ちゃんがくるのを首を長くして待っているんですから」


 彼は笑みを見せてから、萌咲を自宅に上げた。


 介護支援専門員は、月に一度、利用者宅を訪問する決まりになっている。来月の予定表を持参し、現状の把握を行うのだ。


 萌咲が就職した居宅介護支援事業所の客の中には、ニコニコデイサービスを利用している人も多く含まれる。この世界は狭い。退職したとはいえ、ニコニコデイサービスとは切っても切れない関係性だった。


 スミスに促されて、萌咲はリビングの応接セットに腰を下ろした。


「相変わらず、スミスさんのお宅は素敵ですね~」


 萌咲は周囲を見渡して声を上げた。スミスの自宅はまるで一昔前のアメリカ映画のセットのようだ。


 暖炉があり、その周囲には家族の写真のようなものが、額縁に入れられていくつも飾られている。床に敷き詰められているカーペットは、花柄の刺繍が施され、ソファの生地にも薔薇の大輪が咲き乱れていた。


「両親の趣味です。日本が大好きで日本に住み着きましたが、やはり染みついた生活習慣を捨て去ることはできなかったんですよ。結局、アメリカの住宅メーカーに依頼してこの家を建てたんですよ。日本が好きなのか、アメリカが恋しいのか。父とは、そんなちぐはぐな人でしたね」


「人間なんて、そんなものではないでしょうか。一貫性のある人間なんて、なんだかロボットみたいじゃないですか。人間って、その時その時で思うことって変わるものです。おかしいことはないと思います」


 スミスは、萌咲を長椅子に腰かけさせると、自分は向かい側に座った。


「本当にその通りだ。好きだけど嫌い。そんなアンビバレントな感情があるのが人間というものだね。萌咲ちゃんは、とっても思慮深い人だ。若いながらに、どうやったらそんな風に考えられるのでしょうか」


 スミスは、ティーカップに注がれた紅茶を萌咲に勧めた。萌咲は「どうぞお構いなく」と答えた。


「客へのもてなしは日本人の心です。遠慮なんかされたら、僕のもてなしは台無しです。どうぞ」


「それもそうですね……。では、いただきます!」


 萌咲は頭を下げてから、紅茶を口に含んだ。


「おいしいですね! アールグレイ、大好きです」


「僕もです。フルーティな味わい。とってもいいですね」


 スミスはにっこりと笑みを見せた。それから、ふと表情を変えた。


「そういえば、萌咲ちゃんのおじいさんは戦争に行かれたのでしょうか」


「祖父ですか?」


 萌咲は首を横に振った。


「祖父はまだ子供だったようです。父方の曾祖父は島に送られました。母方の曾祖父は大学に勤務していたので、徴兵されませんでした」


「大学ですか。素晴らしいですね! では、萌咲ちゃんはその立派な方の血を引いているのですね」


 萌咲は「うーん」と考え込んでから苦笑いをした。


「そんなことありませんよ。学者気質は一代限り。母方の祖父は建設業を始めてしまって。母もどっちかと言えば、からだを使うことが好きな人です」


 萌咲は母親の親族と面識がなかった。母親は一人っ子だったが、結局は青砥家に嫁入りしてしまい、実家を継ぐ人がいなくなってしまった。祖父が作った建設会社は、人手に渡り関係がない。母は天涯孤独の身なのだ——と言っていた。


『お父さんや萌咲たちがいるから、一人じゃないけどね』


 萌咲の母親は朗らかで、暗い顔を見せたことはないが、実家の話をするときだけは、少々寂し気に見えた。


「お父さんの方は無事だったのですか?」


 萌咲は「えっと」と思考を巡らせる。スミスに尋ねられるまで、すっかり忘れているような話だ。


「曾祖父が配置されていた島は、本当に小さい島だったみたいで……。上空を敵国の飛行機が本土を目指して飛んでいくのを眺めていたら、終戦になってしまったそうです。自分は、結局なにもしていない。戦死していった人に申し訳がないと、話していましたね」


「おじいさまは、幸運の持ち主だ。それでいいのです。神が生きろと言ったのでしょうね」


「そうなんでしょうか」


 萌咲は戦争の話をしたがらなかった父方の曾祖父の横顔を思い出す。寡黙で、いつでも本を読んでいる人だった。


「戦争とはもう、遥か昔の出来事になってしまいました」


「戦争を経験した方々は、当時のことを話すことがお好きな方と、そうではない方に分かれますからね」


「嫌な記憶として残っている人のほうが、多いのでしょうね」


 スミスは萌咲のマグカップが空になっているのに気がついたのか、「もう一杯、いかがですか」と腰を上げた。途端に、彼の脇に置いてあった杖が傾いた。


「あらやだ……!」


 萌咲は思わず、その杖をつかまえた。すると——その杖がうすぼんやりと光を帯びた。


「きゃっ!」


 萌咲は驚いて、思わず杖を手放す。スミスの杖は床に音を立てて転がり落ちた。


「あらやだ。すみません。私——」


「大丈夫ですよ。萌咲ちゃん。そんな軟な造りではありませんから。壊れません。しかし、大丈夫ですか? 急に悲鳴を上げたので驚きました」


「いえ。大丈夫です。あの、杖が……光ったような気がして」


「杖が?」


 萌咲は何度も瞬きをしてその杖を見回したが、どこも変わった様子はなかった。


 ——嫌だ。私の見間違いね。ああ、疲れているのかな。


「私の見間違いですね。嫌だ。すみません。変なことを言って……」


「いいえ。いいんです。さあ、もう一杯、お飲みになってください」


「あの。大丈夫です。今日は書類を見ていただきたくてお邪魔したんですから」


「おお、そうでした。また余計な話ばかりして。僕はいつでも萌咲ちゃんのお仕事の邪魔ばかりですね。すみません」


 彼は頭を下げてから、ソファに座り直した。



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