第49話 死の意味


 ——僕も終わりかな。ああ、悔しいね。飯塚、小田切。そして……小林少尉。

 菱沼は目を閉じる。思い浮かぶのは、若かりし頃の小林の姿。


『なんだ。情けない。もう伸びたのか』


 小林は笑みを見せる。


 ——すみません。少尉。力不足でした。僕では、みんなを守れなかった。あなたのように、みんなを守ることができなかったんだ……。


『キミは生きるんだ』


 ——みんなの犠牲の上に生きろというのですか。


『そうだ。それが生きるということだ。


『生きろ』

『生きろ』

『生きろ』


 小林の声が耳元でこだましていた。


「菱沼さん!」


 自分を呼ぶ鋭い声に、はったとして目を開けると、そこには萌咲がいた。菱沼の危機に、居てもたってもいられなくなってしまったのだろう。


「菱沼さん、しっかりしてください!」


 萌咲は涙でぐちゃぐちゃの顔をしていた。


「萌咲ちゃん。ダメじゃないか。出てきちゃダメだ」


 菱沼は疲労で小刻みに震えている右手で、萌咲のからだを押そうと試みるが、まるで効果がなかった。


「萌咲ちゃん。キミは逃げるんだ。どうやら、僕たちは限界みたいだ。すまないね。守り切れなかった……」


「そうだ。お前たち凡人には限界がお似合いだ。そこで寝ていろ。すぐに棺桶に突っ込んでやる。——さあ、来たまえ。ミス斑目。僕と来るのだ。お前のDNAには、まだまだ利用価値がある」


 スミスはそう言って、萌咲に手を差し出した。彼女は、スミスをきっと睨みつけて、きっぱりと言った。


「私は行きません。ここには私を必要としてくれる人がいるんです」


「強情なところはドクター譲りだね。彼は……ああ、なんと言ったのかな? どうでもいいことは、すぐに忘れてしまうものだね。おかしいな。僕は若返ったはずなんだけれど……。これじゃあまるで老いぼれと同じではないか」


 菱沼は薄れていく意識を、なんとか保たせようと必死に天井を見上げていた。ここで意識を失うわけにはいかないのだ。


 ——萌咲ちゃんを……。この世の中を。僕たちは守りたいだけなんだ。


『あとのこと……頼む』


 小林の言葉。


 死と隣り合わせの時代を生き抜いた。今、この日本は死を恐れる必要はなくなった。死とは、いつでもどこにでもあるはずなのに。死は成りを潜め、まるでそこにいないかのように振る舞う。


 ——死とは常に、誰にでもつき纏うもの。それを回避することに、なんの意味があるのだろうか。


 スミスは、自分の存在は有益だと語る。それは独りよがりの幻想にすぎない。


 人は生まれて死ぬ。そしてまた生まれる。様々な命が、連なりあって、そして一つの流れを作り出すだけの話だ。


 ——僕たちは、たった一つの欠片に過ぎない。


 妻の顔が浮かんだ。彼女は一人で死んだ。誰にも看取られずにひっそりと。静かに、眠るようにそこに横たわっていたのだ。


 彼女がいてくれたおかげで、菱沼の人生は彩られた。


 初めて会ったのは、田舎の髪結い店だった。見合いだった。敗戦で貧しかった中、親戚にでも見繕ってもらったのだろう。頬を微かに赤らめ、くすんだ空色の着物を纏っていた彼女は、とても可愛らしく見えた。


 娘が二人生まれた。難産の家系であるため、出産は命がけだった。初めて我が子を抱いた時。小さくて、温かくて、柔らかくて。こんなにも尊い存在があるのかと驚いた。


 教師という仕事で忙しかった菱沼に代わり、妻は家のこと、子育てのこと、近所のこと、親戚のこと。全てを担ってくれた。


 勤勉な娘は、当時は珍しく大学に行きたいと言った。長女は教師。二女は役場。二人とも就職をした後——。悲劇が起きたのだ。


 ——彼女が残してくれたものは尊い。


 彼女と歩むはずだった時間。それが失われたことほど惜しいものはない。娘の結婚式の席に彼女はいなかった。孫が生まれた日、彼女はいなかったのだ——。


 ——もし。もし命が戻るなら。過去に舞い戻って、彼女を救いたい。けれど、そんなことは無意味なんだ。スミス。キミはそうは思わないか。人は定められた運命に身を委ねるしかないのだ。


 萌咲の細い指先が菱沼に触れる。そこから伝わる温かさが、菱沼の傷ついたからだをじわじわと伝わっていく。萌咲から零れ落ちる涙が、菱沼の頬を濡らしていた。


「ジュニア。起きろ。いつまでも伸びていないで、さっさとあの女を捕まえてこい」


 ジュニアは骸骨のようなからだをゆるゆると起こすと、足を引きずりながら萌咲に近づいてくる。


「来ないで! 菱沼さんは、私が守ります!」


 萌咲はそばにあった、菱沼の杖を手に取った。すると——。杖がまるで炎を上げるように輝き、たちまち九九式小銃に姿を変えた。


「きゃ!」


 思わず手を離しそうになる萌咲の手を、菱沼が支える。


「菱沼さん!?」


「なんだと——!?」


 スミスが息を飲むのがわかる。菱沼にも、なにが起こったのかわからなかった。しかし、からだが軽かった。萌咲が放つ炎に包まれて、菱沼のからだは若かりし頃の彼に変身していた。


「まさか——。そのミス斑目の力で?」


「そのようだね。萌咲ちゃん。ありがとう」


 菱沼は、小銃を握って震えている萌咲の手を握る。笑みを見せてやると、彼女は嬉しそうに笑みを返した。


「こんな茶番。終わらせようじゃないか。スミス」


「な、なにを——」


 菱沼は、萌咲を後ろから抱えるように両腕を回し、萌咲と一緒にその小銃を構える。


「いいね? 萌咲ちゃん。キミの願いをここに込めるんだ」


「はい!」


 萌咲は片目を瞑ると、スミスに銃口を向けた。


「や、やめろ。なにをする気だ! 僕は——僕は死なない。僕は優秀なんだ。僕はこの世界に必要とされているのだぞ!」


「スミス。人とはこれでいいんだ。新しいことを覚えるのが苦手になったり、からだ中が痛んで動くことが鈍くなったり。でも、これでいいんだ。僕らには生きてきた時間がある。経験がある。それでいいじゃないか」


「そんなものは、そんなものは……」


「老いることは、辛いことじゃない。キミは前ばかり見て、自分の歩んできた時間に思いを馳せたことはあるか? それこそが、キミが愛すべきものなのではないか」


 スミスの小銃から立ち上がる炎は彼を包み込む。それに呼応するかのように、萌咲のからだからも炎が立ち上った。


 二人の炎が強くなると、室内にある花瓶の花が枯れた。ジュニアがうめき声をあげた。そばに倒れていた小田切も唸る。


 ——このままでは危険だ。


 二丁の小銃が、周囲の生きている命を吸っているのだ。


「僕は……、僕は優秀なんだ。僕の人生は、これからもまた、ずっと続いていくんだ」


 ——終わりだ。スミス。もう楽になっていいんだよ。


「もう終いにしよう。それを決めるのはお前ではない。スミス——お前は間違っているよ。生きる意味があるならば、死も意味がある、ということをね」


「うわああああ」


 スミスは引き金を引くが、それはまるで的を得ない。恐怖に支配された彼に勝ち目はなかった。


「一発で決める」


「はい」


 萌咲と菱沼の指が重なる。二人はそれぞれの思いを込めて引き金を引いた。薄暗い室内が、眩い光で満たされた。直視できぬ光に、菱沼は目を閉じる。その光はとても温かく、まるで春の日差しのようだった。


『ありがとう。菱沼』


 ふとどこかで聞いた声が耳を掠める。


 ——小林少尉……なのですか?


 菱沼は彼の姿を探そうと、うっすらと瞼を開く。目の前にぼんやりと浮かび上がるそのシルエットは、小林のようだった。


 ——とうとうお迎えですか。


『時期尚早。まだまだキミはやらなくてはいけないことがあるよ。その時が来たら迎えにこよう。それまでは飯塚と小田切と仲良くするんだな。あとを頼むよ』


 部屋中を満たした光は、静かにそっと、小さくなっていった。萌咲と一緒に握っていた小銃は、ただの杖に戻っている。菱沼のからだも戻っていた。膝が折れ、その場に崩れそうになったが、萌咲がしっかりと抱きとめてくれていた。


「萌咲ちゃん……」


「菱沼さん」


 視線を合わせる。二人の間には、言葉などいらなかった。

 



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