第17話 僕はあなたが好きです
萌咲がいつものように身支度を整えていると、早朝であるにも関わらず、近所の聡が姿を現した。
「こんな朝早くに、どうしたの?」
出勤前は忙しい。特に今日は猫同伴。自分の準備以外にもやることが多いというのに。萌咲は迷惑そうな顔をして見せる。彼は、「悪い、悪い」などと軽く言いながら、萌咲の足元にいる猫を抱き上げた。
「今日からマルコを職場に連れて行くって、おばさんから聞いたんだ。たまにはマルコだって、お洒落をしたいんじゃないかと思ってさ」
彼はマルコの頭を撫でる。マルコは聡を見上げて、じっと凝視していた。
トラ猫は成長すると、かなりふくよかな体型になるという。かくいうマルコも例外ではない。ぷっくりと膨れたお腹と、もふもふとした毛なみのおかげで、マルコは随分と大きく見えた。先日も、予防接種のために動物病院で計量してもらったところ、体重は8キロにもなっていた。
名前の由来は体型からきていた。まるまると太っている見た目から、丸い子で「マルコ」。これは萌咲の父親が命名した。
聡はカバンから取り出した首輪を、マルコにつけた。
「こんな色褪せた首輪じゃ可哀そうだろう? ——ほらできた! マルコ。かっこいいよ~」
マルコは「にゃん」と鳴いてから、その短いしっぽをちぎれんばかりに振った。マルコのしっぽは短い。生まれた時からだ。母親のお腹の中で他の子たちに押されて、尾が育たなかったそうだ。長くてゆらゆらと揺れる優雅な尻尾と違い、コミカルな動きを見せるのが愛らしい。
「ありがとう。聡。でも、ごめん。時間ないんだ。もういい?」
「冷たいね~。萌咲は。せっかく持ってきたのに~」
「別に頼んでもいないんだけど……まあいいか。マルコもかっこよくなったしね。なんか御礼するから。また今度ね」
萌咲は聡を玄関の外に押しやると、強引に扉を閉じる。それと同時に、母親が顔を出した。
「まあまあ。聡くん? なんだかんだ言って、仲良しよね。あんたたち、付き合っちゃえばいいのに。どうせ、聡くんも恋人いないんでしょう?」
「誰が! ……あんな奴。幼馴染で、ずーっと一緒にいるんだもん。いい加減にうんざりしているの。あいつが早く結婚しないから、余りもの仲間みたいに見られて。いい迷惑だよ」
「いい迷惑って。あんただって余りものじゃない。じゃあ、あんたには相手がいるっていうの?」
萌咲は口をつぐんだ。母親は、そんな萌咲のリアクションに目を丸くした。
「え? ええ? 萌咲。好きな人、できたの?」
「好きな人なんて——」
萌咲は言葉を切ってから、「あ!」と声を上げた。
「もう行かなくちゃ。行ってきます~」
萌咲はマルコを抱き上げてから、慌てて玄関から外に出た。
「——好きな人だなんて……。もうすっかりいるんだけどな……」
そう呟いてから、はったとすると、下からマルコの視線を感じたのだ。
「もう! 見ないでよ!」
萌咲は自分の愛車にマルコを押し込めると、エンジンをかけて車を発進させた。
***
翌日。菱沼たち三人がデイサービスを利用する火曜日。小田切の話では、順調にマルコからの情報が小田切のパソコンに届いているとのことだった。この後、小田切と聡で情報の確認を行う。N号作戦は順調に遂行されていた。
デイサービスでは、三時になるとおやつの時間になるため、決められた席に着座させられる。菱沼、飯塚、小田切は、いつも一緒に座っているが、昼食とおやつの時間は、別々の席に座らされていた。
菱沼が、定位置に腰を下ろすと、四人掛けのテーブルに座っているのは、自分ともう一人の男だけだった。
「いつものお二人はお休みだそうですよ。菱沼さん。僕たち二人きりですね」
菱沼よりは大分若い利用客の男は、笑みを浮かべる。日本人離れした面立ちは、別の国の血が混ざっているということが一目でわかった。
「そうだね。キミと僕の二人きりなんて、寂しいもんだね。スミスさん」
「そうですか? 僕は嬉しいですよ。菱沼さんとゆっくりお話しができるじゃないですか」
「おやおや。そこまで言われてしまうと、なんだか気恥ずかしいねえ」
彼の父親はアメリカ国籍で、母親が日本国籍だそうだ。年齢は七十代だと聞いている。菱沼からすれば、子どもくらい年が離れているが、ここに来てしまうと、年齢など関係ない。こうして隣同士、肩を並べて座ると、ああだこうだと他愛もない会話を交わしているのだった。
「今日のおやつは、どら焼きだそうですよ」
「スミスさんは、和菓子は好きかな?」
「もちろんです。僕は生まれてからずっと、日本育ちですからね。気持ちは日本人のつもりなんですよ。こんな外見ですけれど」
「これは失礼したね。僕が浅はかだったね。外見で判断してはいけないね」
「わかっていますよ。ミスター菱沼は
菱沼が言葉を切ると、ふとフロアで大きな音がした。二人は弾かれたように視線をやる。音の原因は、職員の一人が転倒し、どら焼きの皿を床に落とした音だったようだ。
ニコニコデイサービスでは、全てにおいて質を重視する。昼食で使用する食器類は、全て瀬戸物で出来ているが、おやつの皿はプラスチック製のものだ。そのおかげで破損はないようだが、たくさんの皿がフロアに散らばっていた。
「もう! また吉成くんなの?」
いつもはのんびりとした
「すみませんってねえ。これ、どうするの? 今日のお皿、使えないじゃない」
利用者の目の前で、スタッフ同士が注意をするのを、菱沼は見たことがなかった。真桜は見た目ほど穏やかではないのは知っていたが、ここまで声を荒上げたのを見たことがなかったのだ。
すると、すかさず萌咲が間に入った。
「はいはい。大丈夫。大丈夫よ。すみませんでした。みなさん。驚かせてしまいました。ほら、吉成くんも、大丈夫?」
萌咲は皿を拾い集めている吉成に手を貸す。彼はおずおずと立ち上がると、誰に、というわけでもなく、ただ闇雲に「すみません」と言いながら頭を下げた。まるで機械仕掛けの人形が壊れてしまったかのようだ。なんの感情も含まれていない謝罪は、傍から見ると、異様な風景にも見て取れた。
「いいのよ。吉成くん。——さあ、みなさん。作業に戻ってください。大丈夫です」
萌咲の明るい声で、フロアの活気が戻る。その間にも真桜は不満気な表情のまま、床に散らばった皿を拾い集めていた。
「いつのご時世でも、能力には優劣がつくものですね」
ふと聞えてきたスミスの言葉に、菱沼は視線を戻す。
「優劣、ですか」
「優秀な人材と、そうではない人材とがどこの世界にも存在するということですよね」
「確かにね……。否定はしないけど。僕は、あまり歓迎できる考えだとは思えないね。人には個性があるものだ。確かに作業効率からみたら優劣があるのかも知れないが。彼は彼なりに、自分のできることを精一杯取り組んでいるのではないかな」
「ミスター菱沼はロマンチストだな」
スミスは、薄水色の瞳を細めた。
「そういうの好きだなあ。だから、僕はあなたが好きなんですよ」
「そうかい? それは嬉しいね」
菱沼は、スミスの意図を汲み取ろうと彼の瞳を覗き込む。そこに、萌咲が紙皿にどら焼きを乗せて運んできた。
「申し訳ありませんでしたね。お皿。ダメになっちゃって。紙皿ですみません」
紙皿には、淡い紅葉のイラストが印字されていた。菱沼は紙皿を持ち上げて、念入りに観察すると、萌咲に笑顔を見せる。
「うーん。素敵なお皿だね。なんだか今日は特別感があって、嬉しい趣向だね。スミスさん。そう思うでしょう?」
「本当だ。いつもの皿よりもいいじゃないか」
二人の言葉に、萌咲はほっと息を吐いた。彼女なりに、思うところがあるのだろう。強張っていた表情が少し緩むのがわかった。
「菱沼さんたちに、そう言っていただけると安心します。ありがとうございました」
彼女はにこっと笑みを見せて立ち去って行った。菱沼の隣で「美味しいですね」と嬉しそうに声を上げるスミスの横顔を見つめてから、菱沼もどらやきを手に取った。
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