第2話 萌咲


 ここは梅沢市。三十万人以上もの人が住む、田舎の中核市だ。その梅沢市駅中心部から西にしばらく離れた場所にあるのが、介護保険施設の一つである「ニコニコデイサービスセンター」だった。


 どこの町でもここ数年で、急激に見かけるようになった介護保険施設。介護保険法は、2000年に施行されたもので、医療費の抑制や、介護に押し潰されている女性たちを救済する目的で作られた。当時は、なんとも怪しげな法律ができたものだ、という悪評が高く、利用する者は少なかったという。


 しかし、それも過去の話。超高齢化社会として世界中から注目をされるほどになった日本では介護保険法はなくてはならない存在だ。顧客が無限大に広がる分野を、民間企業が放っておくはずがない。民間企業が他分野で培ってきたサービス提供のノウハウを活かし、次々に参入。今までにない、お客様第一のサービス提供を開始しているのだった。


 今までの介護業界は、社会福祉法人や医療法人が幅を利かせてきた。決まりきった法人が、決まりきったサービス運営を行う。法人側の意向にそぐわない客はお断り―—黙っていれば客が来る。そんな時代は過ぎ去った。今や地域での客の奪い合戦は激化し、「施設に選ばれる客」ではなく、「客に選ばれる施設」という逆転の構造も見え隠れする時代に突入していた。


 ニコニコデイサービスを運営しているのは地元企業である葬祭会社である。「葬儀屋が介護に手を出した」と、開設当初は裏口を叩かれたものだが、今となっては、市内でもトップを争うくらいの人気事業所にのし上がった。

 

 人気の秘密は二つある。まず一つは外観だ。趣は日本家屋風の平屋の建物。屋根は濃紺色の瓦づくり。外壁には、焼杉が使用されていて、落ち着いた雰囲気を醸し出す。施設の目の前には、送迎車や来客用の駐車場が設けられているが、そこにも日本庭園を思わせるような松や南天などの植木が配置されていた。


 箱物である施設という雰囲気を払拭したようなこの佇まい。まるで高級旅館にでも遊びにきたような錯覚。人とは違うという優越感に浸れるその心理を利用するという思惑は、見事に的中した。


 二つ目はそのサービスの提供方法だ。広々としたホール内には、多種多様なブースが設けられているのだ。脳トレ、運動マシーン、マッサージ器、音楽療法、書道や手芸が行える趣味活動などである。


 ここにきてからの過ごし方は、それぞれが自分の意思で選択できるような仕組みには、利用者たちの心を満足させるものであった。更に、徹底的に教育された職員の接遇、食事の質の良さ。葬儀屋が蓄積してきたサービスのノウハウがここで生かされたのだ。


 開設から五年。ニコニコデイサービスは、口コミの力も手伝って、常にキャンセル待ちが控えているの盛況ぶりだった。


 365日、休業なし。今朝もたくさんの利用者を乗せた送迎車が、玄関口に戻ってきた。


「おはようございますー!」


 スタッフたちは一列に並び、明るく元気な声で、利用客を迎え入れた。大きなワゴン車から手を引かれて降り立つ高齢者たちは、みな一様に笑顔だ。


「おお、今日も元気だねえ」


「若い子の声を聞いただけで、なんだか嬉しいねえ」


「まあまあ、高木さん。お待ちしておりました。わあ! このスカート素敵ですね」


「昔のものだよ。もう新しいものなんて買わないもの」


 白髪の女は、桃色のポロシャツを着た、若い職員に笑顔を見せる。


「えー。昔のって言いますけど。このレトロ柄が、若い人の中で流行っているんですよ。素敵ですよ。本当に」


 職員の言葉に、褒められた女は恥ずかしそうに目元を朱色に染めた。


「もう、本当に。萌咲もえちゃんは、嬉しいことばかり言ってくれるわねえ」


「萌咲ちゃんの笑顔を見ると、私たち、ここにきてよかったなーって思うんだよ」


 隣にいた腰の曲がった女も笑う。萌咲は、二人を見つめてますます笑顔を作った。


「私もですよ。高木さんと、橋田さんとお会いできて、本当に嬉しいです。さあ、どうぞ。中でお茶を準備しておりますから。落ち着いたら、健康チェックに回ってください」


 萌咲は二人をそっと中に誘導した。


 彼女は青砥あおと萌咲もえ。萌咲は社会福祉士の資格を持ち、相談員をしていた。


 相談員とは、主に外部との連絡を取り合う窓口役である。新規利用者の調整や、事務手続き、外部で開催されるさまざまな会議への出席、利用者を担当している介護支援専門員ケアマネジャーとのこまごまとした連絡調整……。それ以外の時間は、介護員と一緒になって、利用者の世話に回る。


 通所介護支援事業所デイサービスの一日は忙しい。職員たちは7時過ぎには出勤してきて、ミーティングを行う。そこで本日の利用者の名簿を確認し、準備ができた順に運転手と介護員がペアになって、利用者を迎えに出発するのだ。


 一日の利用者数は30名。そのメンバーを、サービス開始時間である9時半までに集めてこなくてはいけない。職員たちは常に時間に追われ、忙しい日々の中、利用者たちが気持ちよく利用できるように、おもてなしを提供し続けているのだ。


 この仕事は給与も低く、休みも少ない。就きたくない仕事ワーストランキングの上位に入るのも最もだ。しかし萌咲はこの仕事が好きだった。萌咲は目の前にいる人たちが歩んできた人生を踏まえて、残りの人生をどう充実させていくのかを一緒に考える仕事は、とても尊いものだ——と理解していたのだった。


 彼女は市内出身だ。父親の妹——つまり叔母が福祉施設の責任者を担っていたことが大きく影響した。叔母の背中を見て彼女は、幼い頃から「人のためになにかをしたい」という気持ちが強く抱いていた。進路を決める時も、ブレたことはない。ずっと福祉関係の仕事をする夢を追いかけてきたのだ。そう。青砥萌咲は念願の夢を叶えて、この場所で充実感を持って日々の勤務に勤しんでいるというわけだったのだ。


 今日もニコニコデイサービスの一日が始まる。『となりぐみ』の歌に合わせて、肩をトントンとする体操をしている一団を横目に、萌咲はソファに座り新聞を開いている男に声をかけた。


菱沼ひしぬまさん。おはようございます」


 菱沼は萌咲に気がついたのか、ゆっくりと新聞を下ろして、灰色がかった双眸を萌咲に向けた。


「萌咲ちゃん。おはようございます」


 その笑みは柔らかく、萌咲の胸はきゅんと高鳴ったのだった。




 





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