栄光の陸軍技術研究所
雪うさこ
第1部
第1話 萌咲、死す!?
——私の人生は、まったくもって面白味がない平凡なものだったな。
公務員の父親と、専業主婦の母親、弟が一人の平凡な家庭に育った。もともと引っ込み思案でもなく、目立ちたがり屋でもなく。成績も中くらい。すべてが平凡な人生だった。
高校時代にボランティアで触れた福祉という仕事に感動し、そして福祉大学に進学をした。そこで彼氏もできた。このまま結婚をして、子を設けて——そう思っていた矢先。その彼氏を友達にとられた。
ヤケになった。もう結婚なんてしないんだから、と友達に宣言をして、大学卒業後は仕事に没入した。その仕事ぶりを買われ、去年、三十歳を目の前にして、主任に昇進した。けれど、そんなものはなんの意味もないことだった。
役職などなんの意味もないこと。担う業務が増えただけ。責任が増えただけ。それだけの話だった。
——結婚もできないで人生終わるのか。ああ、けれども、これはこれでいい人生だったのかも知れない。そう。少しでも誰かのためになるのであれば、私は幸せな人生を送ったと言ってもいいんだよね……?
目の前に迫るトラックを見つめながら、萌咲は死を覚悟した。
——きっとアレにぶつかったら、痛いんだろうな。からだがグシャッて潰れるのかしら? その時、痛い! って思うのかな。それとも、思う間もなく、あの世に行ってしまうのかしら……。
痛みを想像し、ぎゅっと目を瞑る。しかし——その時は訪れなかった。反射的にぎゅっと瞼を閉じたおかげで、周囲の様子がわからない。痛みも、衝撃もなにもない。むしろ、ふんわりとした温もりに抱き留められた感触に、そろそろと瞼を持ち上げた。
すると、そこには——。漆黒のキラキラした輝くような瞳が見えた。その双眸の下には、高くすっとした鼻梁が伸びていた。更にその下に引かれている薄い唇は、朱色に光っている。
——え?
萌咲は男の顔が近いことに羞恥心を覚えた。思わず顔が熱くなる。自分は、彼に抱きかかえられているという現実を理解したのだ。
「あ、あの。あの。……!」
トラックに轢かれそうになった事実。
見ず知らずの男に、こうして抱きかかえられているという事実。
萌咲は混乱していた。うまく言葉が出てこないのだ。彼が原因で混乱しているというのに、目の前の男にすがるしかない。萌咲は男をじっと見上げた。
「よかった。無事で。萌咲ちゃん——」
——なんで、私の名前を!?
男は苔色で短いつばの上に五芒星の紋章が取りつけてある帽子を、少し持ち上げると、ふと笑みを見せる。帽子と同じ色の軍服をまとっている男は、今の日本には、大変似つかわしくない存在であるはずなのに。萌咲はすっかり彼に魅了されて、視線を外すことができずにいた。
「軍曹! ご無事でしょうか?」
向こうから駆けてくる男も、萌咲を抱えている男と同じ格好をしていた。彼の手には、小銃が一丁握られていた。
萌咲は更に視線を巡らせた。
——トラックは?
萌咲を轢きかけていたトラックは、近くの街路樹に衝突し、動きを止めていた。ボンネットからは灰色の煙が立ち上っている。
更にもう一人の軍服の男が、運転手に「おい、大丈夫か?」と声をかけていた。運転手に怪我はないのだろう。「大丈夫だ……」という声が返ってきた。萌咲は、ほっと息を吐いた。
どうなったのか、まったく理解できなかったが。自分は救われたのだ。この男たちに——。
「萌咲ちゃん!」
「萌咲さん! 大丈夫ですか!?」
後輩や同僚たちが駆けてくるのが見えた。からだを起こし、「大丈夫よ」と、手を振り返した瞬間。萌咲を救った男たちの姿は、もうそこにはなかった。
「あの人たちは……?」
「なんか、変な格好をしていましたけど……それよりも! 萌咲さん! 大丈夫なんですか?」
後輩の
——私。生きている……。
萌咲は勤務している介護施設の利用者たちを連れ、紅葉狩りに来ていたのだ。ところが、利用者の一人が車道に飛び出そうとしていたのに気がついた。
考える間もなく、萌咲のからだは動いていた。彼女を助けようと、車道に飛び出したのだ。しかし——。すでに遅かった。利用者の女性を体当たりで歩道に押した萌咲のすぐそばにトラックが迫っていたのだ。
「助けなくては」という思いではない。なにも考える暇はなかった。無意識にからだが動いていただけだったのだ。迫りくるトラックを目の前にして、萌咲の脳裏には、今までの人生が走馬灯のようによみがえった。そして自分はやりきった。そう思うと同時に、死を覚悟した瞬間だったのだが……。
自分はこうして、あの男たちに救われた。
——あのコスプレの男性たちは、一体……。あの人は……誰なの? なぜ私の名前を?
なぜトラックは進路を変え、街路樹に激突したのだろうか?
萌咲は首を傾げ、騒然としている周囲を見渡した。しかし、男たちの姿を見ることはなかったのだった。
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