第3話 幻の軍事施設
「なにか面白い記事でもありましたか」
「面白いとは、到底言い難い出来事ばかりだね。僕たちが若かった頃も、嫌な事件はたくさんあったけれど、近頃の事件は更に理解し難い。こんな記事ばかり読んでいると気分が滅入っていしまうよ。……ほら。見てごらん」
菱沼は新聞を折りたたんで、それを萌咲に見せた。萌咲はそれを受け取ると、そろそろと記事に視線を落とす。どんな悲惨な事件が書かれているのだろうか、と思ったのだ。
しかし。そこには梅沢市民運動公園にある銀杏並木の紅葉が、見頃を迎えているという記事が載っていた。
「あらやだ。今日、行く所じゃないですか!」
萌咲は、なんだか肩透かしを食らったみたいな気持ちになり、驚いて菱沼を見つめる。すると、菱沼は片目を瞑ってウインクをして見せた。萌咲は、ぱっと顔が熱くなるのを感じた。
「騙されたね」
菱沼は茶目っ気を持つ男だ。黙り込んでいる姿は、少々近寄りがたい雰囲気なのだが……こうして話をしてみると、冗談を言ったり、萌咲をからかうような仕草を見せたりするのだ。
「もー。菱沼さんって、そういうところ、ずるいんだから!」
萌咲は気恥ずかしくなって、少々俯いた。
「ごめんね。萌咲ちゃん。からかっているんじゃないんだよ。僕は楽しみにしていたんだ。今日の紅葉狩り。運転免許も返納してしまったからね。僕は翼を失った鳥と一緒だ。情けないものだね。自分で好きな場所に行くことが叶わないなんてね」
センターでは、年に何度か外出行事を企画していた。利用者たちを連れ、半日程度、外に出かけるのだ。出かける先は様々だ。外食や買い物。それから季節に合わせたもの——例えば花見や紅葉狩りなど——だ。
ツアーに参加できるのは、菱沼のように自立度の高い利用者に限られるが、それでも人気の高い企画の一つでもある。
「もう山々はすっかり色づいているからね。写真なんかよりも、もっと美しく見えることだろうね」
「昨日の利用されている方たちと、一緒に行ってきましたけど。すっごく綺麗に色付いていました。菱沼さんと一緒に見られるなんて……私、嬉しいです」
長身な菱沼は、さりげなくからだを横に動かした。彼女は軽く頷いてから、菱沼の隣の空いたスペースに腰を下ろす。
菱沼は白内障だと言っていた。その瞳は灰色だ。彼は白銀の髪を後ろになでつけ、品のいいベストをまとっていた。右足が悪く、いつも海老茶色のスチール製の杖を携帯している。
市内に住む娘がたまに顔を出すようだが、若い頃に妻を亡くしたおかげで、身の回りのことは全部自分一人で担っているというしっかり者だ。
週に一回。彼はこのデイサービスに姿を見せると、一人で静かに新聞を読むか、仲のいい仲間二人と雑談をしているようだった。
萌咲は菱沼とこうして会話をするのが好きだった。彼は聡明で思慮深い男だった。こうして静かに座っている間にも、施設の中でのことをよく観察している。得に人の気持ちの機微を読み取る能力が高く、萌咲が悩んでいると、さりげなく声をかけてくれたり、励ましてくれたりするのだ。
無論、仕事である限り、どの利用客に対しても公平中立に接しているつもりだが、萌咲だって人間だ。利用客すべてを平等に好いているわけではない。こうして心から安心し、楽しみに思って会話をする利用客は、彼をおいて他にはいないのだった。
「しかし、紅葉の名所と言ったら、他にもあるんじゃないかな。市民運動公園というのは、また……」
菱沼はふとそう洩らした。萌咲は首を傾げる。
「市民運動公園では不満ですか? 最近では、銀杏並木で有名スポットなんですけど……」
彼はいつでもハキハキと話をするタイプだが、なぜかこの時は戸惑っているようだった。
「菱沼さん?」
萌咲の不思議そうに問う声に、彼は観念したのか、重い口を開いた。
「あそこはね。……終戦直前に市内で唯一、空襲された場所なんだよ」
「え! そうなんですか? こんな田舎なのに? 爆弾が落とされた場所なんて、あったんですか。初耳なんですけど」
「もう戦争の話は、遥か昔だからね。知らなくても当然かも知れない。それに、都市部の空襲に比べたら、微々たるものだ。犠牲になったのは、そこにあった軍事施設の職員だけ。地元民からしたら、語り継ぐほどの内容ではなかったのかも知れないね」
「でも犠牲になった方がいたんですよね。それなのに、地元民が忘れてしまうだなんて、なんだかとっても悲しい気持ちになりますね」
萌咲が声色を落とすと、菱沼は口元を緩めた。
「萌咲ちゃんが、気に病むことではないのだよ」
「でも。知らないからいい、では済まされないこともあると思うんです。私たちは、そういった過去を知ろうとしなければならないですよね。それが私たちに課せられた責任だと思うんです」
萌咲はいったん、言葉を切ってから、菱沼のその灰色の瞳をのぞき込んだ。
「菱沼さんも戦争に行かれていたんですもんね。お話したくないことだって、たくさんありますよね。でも、菱沼さん。もし菱沼さんが『話してもいい』って思う時が来たら、ぜひ私にも聞かせて欲しいんです」
菱沼は皺だらけの目尻を下げた。萌咲にとってみれば、大東亜戦争など、遥か昔の話だ。
萌咲の曾祖父の一人は戦死していた。曾祖母は、萌咲が中学生の頃に亡くなったが、彼女もまた、曾祖父の話や戦時中の話は一切せず仕舞いだったのだ。よほど嫌な経験をしたのだろう。今となっては過去のこと——。しかし、その事実を語り継ぐ人たちは、この世の中に少なくなってきてしまっているのだということ。
「それにしても、こんな田舎に軍事施設があったんですね。なんだか興味深い話ですね。知っている人は、すごく少ないんじゃないですか。まるで、幻の軍事施設ですね」
「幻か……。それは言い得て妙だね。ちゃんと記録は残っているがね。設置されて間もなくの爆撃だった。そして、終戦を迎えてしまったからね」
菱沼に褒められると、萌咲は恥ずかしい気持ちになった。菱沼は苦笑すると、自分の右足をさすった。
「この足は戦争でね。僕は足一本で済んだ。命もあって、自分で自分のことができるということは、幸運なことであると思っているよ。当時は、生き残った自分を呪ったものだが……。そうだね。あの時、死んでいたら今ここにいなかった。萌咲ちゃんとも会うことができなかったね。ああ、長生きしてよかったのかな?」
「まあ! 菱沼さんは、お上手ですね」
萌咲は顔が熱くなる。そっと菱沼を見ると、灰色のその瞳は、萌咲を優しく見つめていた。急に居心地が悪くなって、その気持ちを押し隠すために腕時計を見た。
「そろそろ、準備しなくちゃ。お昼前には戻れるように出発しますね。菱沼さん。トイレ済ませてくださいね。お友達の
萌咲は、菱沼の隣のソファに座っている二人組の男——飯塚と小田切にも声をかけた。居眠りをしていた飯塚。文庫本を開いていた小田切。二人は、「はいよ」とか「ええ、ええ」と生返事をしていた。
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