第4話 三人を呼ぶ声



「まさかあの地に三人揃って行くことになろうとは、思いもよりませんでしたよ」


 マイクロバスの中、菱沼の隣に座った飯塚は、禿げあがった頭を撫でながら言った。菱沼は窓に映った自分の顔を見つめたまま、「断ればよかったかな?」と答える。


「いや。三人で行ったからって、なんてことはありませんけどね。軍曹……じゃなかった。菱沼さんは、よく行かれるんですか? あそこに……」


「毎年。あの日になれば、必ず足を運んでいるよ。キミはどう?」


「おれは……なかなか気が向きませんで。——小田切くんはどうだい?」


 マイクロバスの通路を挟んで、一人で座っている男に話題を振る飯塚。小田切と呼ばれた男は、白髪交じりの髪を短く刈り上げ、黒縁の眼鏡をかけていた。小柄でふくよかな飯塚とは対照的に、体格は中肉中背。ステンレス製の杖に両手を預けている。


「僕も数年に一度くらいです。しかしそう言われてみると、各々で足を運んでいるばかりで、一緒に行くなんてこと、考えたこともありませんでしたね」


 菱沼は「ああ、そうかも知れないな」と答えた。


 ——そうだ。この生き残った我々三人が揃って、あの場所を訪れるのは初めてなのだ……。


 菱沼の脳裏には、遥か昔——。自分が陸軍に所属していた頃の記憶が蘇っていた。最近のことは、断片的にしか思い出せなくなってきているというのに、あの頃の記憶は、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せるものだ。本来ならば、そう思い出したくもない過去であるはずなのに。老いとは難儀なものであると思った。


「まさか、年を重ねて、介護保険施設こんな場所で再会するというのも奇跡に近いというのに。三人でまたあの場所へ行くというのも、これまた奇跡ですね」


 真ん中に挟まれている飯塚は、頭をぺちぺちと叩きながら、微妙な笑みを浮かべた。すると、前に乗っていた萌咲がマイクを手に立ち上がった。


「そろそろ目的地が見えて参りました。本日は銀杏並木周囲の散策になります。30分程度の自由時間を取る予定です。その間は、なるべくみんなで行動しましょう。はぐれないようにしてください。公園敷地内は広く、銀杏並木公園の前には車道があります。くれぐれもそちらには近づかないようにご注意ください……」


 ハキハキとした萌咲もえの声は、バスの中に華やかに響き渡る。


「菱沼さんは、萌咲ちゃんと仲がいいんですから。妬けますよ」


 萌咲の説明を聞いていると、飯塚がそう言った。菱沼はそこで、自分の表情が緩んでいることに気がつく。


「彼女はとても誠実で、明るくて、いい子だ。彼女がいると場が華やぐ」


 菱沼は咳払いをした。


「赤くなっていますよ。菱沼さん。奥さんを亡くしてから久しいんですから。どうです?」


「からかうな」


 飯塚の向こう側から、小田切も話題に混ざった。


「彼女、30歳だそうですね。結婚相手がいないのが不思議でならないです。僕が若かったら、ぜひめとりたいですね」


「小田切くん。奥さんに聞かれたら怒られるよ。萌咲ちゃんみたいな、明るい孫がいたらよかったのにな……」


 飯塚は大きくため息を吐いた。そこでバスは静かにスピードを落とし、銀杏並木公園の目の前に停車した。


 三人は流れに乗ってバスから降りる。入口のところで待ち受けている萌咲と、真桜まおが点呼を行った。参加者の中には、認知症で落ち着きのない利用者も混ざっている。スタッフが五人ほど同伴しているとはいえ、大変なことだ、と菱沼は思った。


 本来ならば、こんなリスキーなことを企画しなくてもいいのではないか、と思うのだ。しかし利用者たちの喜ぶ顔を見たい——そんな思いで、職員たちは大変なことを自ら買って出る人間ばかりだ。この施設を利用して、一年になる菱沼だが、職員たちのその熱意に頭が下がる思いだった。


 点呼が終り参加者たちは、職員の誘導に従って、銀杏並木に足を踏み入れた。


 菱沼は周囲に視線を巡らせる。当時とはすっかり様変わりした景観。市街地から離れ、田んぼや畑、雑木林が広がる場所だった。鬱蒼とした林があり、そこにその軍事施設はあったのだ。


 風に揺られて、木々がザワザワと音を立てている。黄金色に姿を変えた銀杏の葉が風に乗って舞っていた。冷たい秋風が、まるで啼いているかのようだった。


 菱沼は突如、言い知れぬ不安に襲われた。

 

 戦後ここには、何度も足を運んだ。しかし、こんな気持ちになったことはない。萌咲たちは、銀杏並木にはしゃいでいる様子が見て取れる。この場は楽しく、賑やかであるはずなのに。


 ——なんだ? この静けさは。


 菱沼の耳には、その喧噪がまるで届かない。むしろ、重苦しい空気が張りつめているようだった。風の啼く音と重なり、耳鳴りが響いた。


 ——……だ。


 どこからか声が聞こえた。幻聴か、と菱沼は首を横に振った。背筋がぴんとしていると言え、菱沼は今年97歳になる。人間、97年も稼働していれば、あちこちガタがきても致し方がないのだ。


 若い人たちには聞こえて、年齢を重ねた者には聞こえない音の周波数があるというが、この年になってくると、逆に余計な音が耳を騒がせるものだ。耳鳴りの一種であろうと、片付けようとしたその時。再び声が響いてきた。


 ——待っていたぞ……。


 菱沼は振り返って、声の出所を探る。


「どうしました? 菱沼さん」


 菱沼の異変に気がついた小田切が、歩みを止めて彼を見ていた。


「なにか聞こえないだろうか?」


「耳鳴りですか? ——なにも聞こえませんよ」


 飯塚は耳を澄ませるが、首を横に振った。


「そうか。年だな」


「致し方ありませんって。我々のからだは、もう限界でしょう? こんなに長生きするなんて、思ってもみませんでしたね」


 彼は朗らかに笑う。それから、「おお、見てくださいよ」とある方向を指さした。


「あそこ。もう見る影もありませんけれども、鳩小屋があった場所ですよ。孫が調べてくれたんですよ。昔の施設の地図と、ここの地図を重ね合わせて」


 飯塚はそう言ったかと思うと、ふと言葉を止めた。


「飯塚くん?」


「あ、あれ? おかしいな——。おれにもなんだか……変な声が聞こえてきますけど」


 飯塚は右耳を手で覆って、「うう」と唸った。それと同時に、小田切も「聞こえます」と言った。


 しかし周囲にいる人々に、その声は聞こえていないようだった。随分と先まで歩いて行っている萌咲たち。菱沼たち三人は、その集団から遅れてしまっているのだった。


 平日の公園にやってくるのは、現役を引退した高齢者か、子育て中の母子くらいなものである。まばらに見えている人々を余所に、三人にだけ届くその声に、戸惑いしかない。


「これは、一体……」


「あ、あそこではないでしょうか? あそこから聞こえてきます……」


 三人の中で一番若い小田切は、ふとある場所を指さした。そこは、銀杏並木からは反対の方向にある林だった。歩道が整備されているような場所ではない。ぱっと開けた銀杏並木とは打って変わって、木々が生い茂っている場所でもあった。


「あんなところ、あっただろうか? ここには何度か足を運んだのだが……」


 菱沼は未だに響く声に困惑した。それに答えたのは飯塚だ。


「ああ、なんてことだ。あそこは中央棟があった場所じゃないですか」


 三人は顔を見合わせる。お互いが緊張していることは手に取るようにわかる。小田切がごくりと喉を鳴らした。それから小さい声で「行ってみますか」と言った。三人の目は真剣そのものだった。


「ああ、こうして三人が揃ったのだ。行かずにはいられないだろう。なあ、飯塚くん。小田切くん」


 菱沼の答えに、二人は黙り込んでいるものの、力強く頷いた。





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