第36話 日常に戻ろう
飯塚と小田切が顔を見合わせる脇で、菱沼は「そうですか」と答える。それから、自分の手元にあった杖を差し出した。
「どうぞ」
「あっさりですね」
藤東の隣にいた男が両手を差し出し、その杖を受け取った。
「そもそも、僕の物ではないからね。——しかし、ここで返すとなると、少々困ったことになるんだ」
菱沼の言葉の意味を理解したのか。藤東は控えていた男に視線をくれる。男は小さく頷くと「こちらをお使いください」と、上品な黒色の杖を差し出した。
「お二人の分も準備させてもらっています。菱沼さん。本当に、今までありがとうございました。いつまでも、民間人であるあなた方を危険な目に遭わせるわけにはいきませんからね」
藤東は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。まるで、菱沼たちが襲撃されたことを知っているような口ぶりだ。もしかしたら自分たちは、常に彼らに監視されていたのだろう。
——動物たちを使って兵器を開発していた僕たちが、逆に被験者になるんだから。因果応報だね。
飯塚と小田切は困惑したような顔つきで、互いの様子を伺っているようだった。菱沼は二人にも杖を返還するように促した。
「飯塚くん、小田切くん。さあ、お返しして」
小田切は渋々という様子で杖を差し出す。菱沼の時と同様に、藤東の隣にいた男が、それを受け取り、新しい杖を小田切に手渡す。
残るは飯塚だ。だが——。彼は首を横に振った。
「なんだか返したくないです」
「飯塚くん」
「だって——」
菱沼に名前を呼ばれた飯塚は、狼狽えた様子で杖を抱き寄せる。藤東は優しい声色で言った。
「お気持ちはお察しいたします。確かに、若かりし頃の感覚を味わってしまうと、手放したくないでしょう。勝手に押し付けてしまったことはお詫び申しあげます。しかし、この小銃は我々国家が管理するものです」
「詫びなんて……。本当に勝手だな。あんたたち」
飯塚は口ごもった。
「さあ、お返しください」
藤東は大きな手を差し伸べてくる。飯塚は「ううう」と言いながら、その杖を彼に手渡した。
藤東は満足げに笑みを見せると、「後程、改めてお礼に参ります」と言い、男たちを引き連れて喫茶店『金魚』を後にした。
「うう。なんだか悔しいです」
取り残された飯塚は菱沼に言った。彼の気持ちは痛いくらいよく理解できた。
これは「お願い」ではなかった。菱沼たちが返還に応じなければ、力技で奪うつもりでやってきたのだろう。
藤東の後ろに控えていた男たちは、みな筋肉質で身体能力に長けているようだった。菱沼たちが小銃の力を解放し、抵抗するとでも思っていた証拠だ。
——どうやら、僕たちのこと。高く評価してくれているみたいだけどね。
「致し方ないさ。国家に反抗するほど、僕たちは若くはないよ」
「でも——」
菱沼は首を横に振る。
——この件に関わると、みんなが危ない目に遭うんだ。夢を見ていたと思えばいい。
「この件は終いだ。僕たちは日常に戻ろう。ほら、こんなに素敵なお揃いの杖をもらったよ」
「軍曹……」
「飯塚くん。その呼び方はなしだよ。ね?」
飯塚は首を竦める。小田切もため息を吐いた。菱沼は「マスター」と声を上げる。
「マスター。悪かったね」
菱沼の詫びに、マスターは苦笑いをした。
「菱沼さんたちのせいではないじゃないですか。まったく。柄の悪い人たちでしたね。まさか——小田切さんが鍵でハートをこじ開けたいご婦人は、かなり危ない関係の方なのでしょうか?」
マスターは本気とも冗談ともつかない様子で小田切を見た。小田切は「まさか!」と飛び跳ねた。
喫茶店『金魚』の雰囲気は、いつものような穏やかなものに変わる。菱沼はマスターの名を呼んだ。
「せっかくだから、ホットケーキを三つお願いするよ」
「わかりました~」
マスターのよく通るバリトンボイスが喫茶店に響くと、他の客たちも自分たちの話に戻っていった。
「さあ、僕たちも日常に戻ろう。まったくこんなことに巻き込まれるなんてね。長生きなんてするものじゃないね」
飯塚と小田切は、頭を掻いてから笑みを見せた。
「ホットケーキのお金、ないです」
飯塚はポケットから小銭入れを取り出すと笑いながら、中を開いて見せた。
「お小遣い、ないんですか」
「無駄遣いするからね。駄目って。コーヒー飲みに行くなら、コーヒー代しかもらえないんだ」
「今日は僕が持つよ。たまにはいいじゃないか。お疲れ様会だね」
「——そうですね」
「ごちそうさまです」
三人は顔を見合わせてから笑みを見せ。
——そうだ。これでいい。僕たちは日常に戻るんだから……。
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