第15話 猫くん



 小田切は、自宅の近くにある公園のベンチに座っていた。自宅の作業に行き詰ると、必ずと言っていいほどここに座って気分転換をするのだ。


 いつもここで時間を過ごしているおかげで、近所では「小田切さんの旦那さん、ぼけっとして、認知症になったみたいよ」と噂されていると、妻から聞いた。妻からは「変な噂になると困るので、公園には行かないでくださいよ」と言われた。


 しかしこの年になると、そんな些細なことは気にすることでもない。言いたい人には言わせておけばいいのだ。この場所は小田切が物思いに耽るには、ちょうどよい場所だったのである。


 ここのところ、彼は当時の研究ノートの中に記載されている兵器を作ることに没頭していた。当時、実用化への過程には壁がいくつも存在した。しかし今の時代となってみると、そんなものはなんてことないものだ。


 ——全く時代は変わったのだな。


 彼はベンチに腰を下ろし、青い空を仰ぐ。今日は小春日和だ。本当ならば、心が少し浮ついてもいいくらいのいいお天気だというのに。小田切は浮かない表情でそこに座っていた。


「ネズミを媒体とする案はボツか……」


 うまくいくと思っていたのだ。先日、二人から却下された案だが、小田切は諦めきれずにいたのだ。あれ以降も、自分なりにネズミ兵器の実用化について、思考錯誤を繰り返した。だが——。ネズミ兵器には限界がある、という結果にたどりついてしまったのだ。


 ネズミは夜行性。そして人の気配を極端に嫌がる。つまり、無人の場所を探索するには好都合だが、人の気配がある時は、ネズミ兵器は物陰に潜んでしまうという結果になったのだ。


「それじゃあ、意味ないもんな……」


 人間を恐れる動物では、萌咲の周囲を監視する目的は果たせないということだ。


 ——もっと若ければな。きっといいアイデアが浮かぶんじゃないかなあ。この年になると、脳もポンコツだ。


 小田切は深いため息を吐いた。ノートを横に置いて、そのままぼんやりと公園内を見渡す。ここは、紅葉を見に行った市民運動公園とは打って変わって、住宅街の真ん中にある小さい公園だ。ブランコが二つと砂場があるだけ。後はベンチが二脚と水飲み場だ。


 周囲の住民たちが、たまに憩うだけの場所。夕方になると、学校帰りの小学生たちが遊んでいる姿をよく見かけるが、平日の日中は、こうして高齢者がのんびりと過ごしに来るくらいの話である。


 小田切はベンチに立てかけていた杖に目を止めた。小銃の力を使い、若返ったら——。


「いいアイデアが浮かぶかも知れないぞ」


 小田切は「ごくり」と唾を飲み込んだ。


 この小銃はある意味、危険な代物だ。老いを消し去り、自分が一番、輝やいていた時に戻ることができるのだ。世界一の富豪ですら時間は買えない。こんな魅惑的な代物は、どこを探しても見つからないだろう。


 小田切は杖を掴み上げようとした手を引っ込めた。小林は、どういう意図でこれを自分たちに託したのか。その真意が掴めない今、安易に使うものでもないと自制心が働いたのだ。


「うううう」と一人で唸っていると、小田切の隣、ベンチの空いているところに、猫が一匹上ってきた。小田切が猫に視線を遣ると、まるで小田切の気持ちを理解しているかのように、猫は「にゃん」と鳴いた。


 三毛猫だった。毛並がつやつやとしているところからすると、飼い猫であると思われる。小田切が手を伸ばすと、猫は鼻を寄せてクンクンと匂いを嗅いできた。


「人慣れしているのだな、お前」


 耳の後ろをくすぐると、猫は「にゅん」と鳴いた。すると、若い女性が一人やってきた。


「ああ、こんなところに。すみません。チャコ。おいで」


 女性の登場に猫は、ピンと耳を立ててから女性の元に駆け寄った。


「キミの猫かい?」


「すみませんでした。すぐに出かけて行っちゃって」


 女性はチャコを抱き上げると、にこっと笑みを見せた。


「この子。賢いんですよ」


「へえ。賢い猫ちゃんねえ」


「猫、お好きなんですか」


「猫どころか、動物全般が好きですね」


「まあ、動物全般って……すごいですね。ペット以外の動物も?」


 彼女は小田切の隣に腰を下ろす。腕の中で猫はじっとしていた。


「そうだねえ。畜産研究所にいたものでね。牛も馬も豚も。ペット以外の動物もみていたものですよ」


「畜産研究所ですか。すごく興味あります。私は大学で動物の研究をしているんです」


「おお、どんな研究なのですか?」


「牛の受精卵です」


「おお、今はそういう時代ですからね。で、で? どんな内容なんですか。あ、秘密ですよね。そんなこと、軽々しく見ず知らずの者に明かせませんね」


 小田切は、はったとして言葉を切った。しかし彼女は、チャコを撫でながら笑った。


「まあ、どこにでもある研究ですからね」


「いやいや」


「今日はお休みなんです。たまにはこうして息抜きをしないと。いつも同じことばかり考えていては、煮詰まってしまいますからね」


「その通りですね」


 ——本当に、その通りだ。


 女性の腕の中で、すっかり落ち着いているチャコを見下ろしていると、ふと小田切の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。


「猫とは夜行性なのかとばかり思っていましたが、こうして日中も活動するんですね。僕は、動物は好きなんですけれども、動物を飼ったことがないんですよ。だから、額面上のことしかわからなくて……」


 女性は「まあ」と笑った。


「確かに、日中は丸まって寝ていることが多いですよ。でもチャコは、とっても賢くて甘えん坊なんです。私がいつも仕事でいないものだから、こうして休みの日ってなると、朝からうろうろして、私の後を追いかけてくるんです」


「後追いするんですか? まるで人間の子どものようだな」


「ええ、トイレやお風呂にまでついてくるんですよ。可愛いんですから」


「それは、それは」


 小田切は笑った。それから、はったと笑いを止めた。


「賢い猫か。猫は寝ているばかりではない——」


「どうかされましたか?」


 小田切はすっかり自分の世界に入り込んでしまった。目の前の女性の声など、耳に届くはずもない。


「そうか。そうだった! なぜ気がつかなかった。確か……、萌咲もえちゃんには猫が……。そして、来週は幸運なことに例のイベントがあるじゃないか。おお。これは。これは幸運だ!」


 小田切は興奮して、ベンチから立ち上がる。その際、曲がっていた腰がグキリと変な音を立てた。


「ひい!」


 あまりの痛さに、小田切はベンチに腰を下ろすと、「うううう」と唸った。


「大丈夫ですか?」


「うう。ダメです。もうダメだ……」


「まあ! お宅はどちらなんですか? お送りしましょうか。歩けますか?」


「うう。手を、手を貸してください……」


「わかりました。どうぞ」


 彼女の差し出す手は、まるでマネキン人形のように、艶やかで白かった。小田切は、その手を握り返した。


 ——おお、なんという幸運だ。


 口元が緩みそうになるのを堪えて、チャコを見下ろすと、彼(彼女?)は、じっと小田切を見つめている。疑念の色が浮かぶその視線。だがしかし。小田切は耐えた。若い女性の手を握れる機会など、そうないからだ。


 ——真桜まおちゃんの手は大福みたいなんだよね。僕はお人形さんみたいな手のほうが好きだね。


 小田切は笑みを隠せずにいたが、ふと下からの視線にはったとする。そこにいたチャコは、今までの態度とは一変し、「シャー」と威嚇するように唸る。


「まあ、チャコ。そんな態度はいけませんよ」


 チャコは飼い主に怒られて耳もしっぽも垂れた。


 ——さて、突破口が見出せたぞ。作業に戻るとしようじゃないか。




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