第14話 極楽浄土
飯塚は若いころから人と仲良くなるのが得意だった。研究所では、大した仕事を任されているわけでもなかったが、その人柄を利用して、近隣に住む地元民とのパイプを作っていた。彼が地元民たちと懇意にしていたおかげで、所員たちは、食べ物に困らなかった。ある意味、貴重な存在である。
「今日の
二人掛けのソファに並んで座っていた真桜は、飯塚の話術に乗せられて、機嫌よく話をする。
「違うって、なんですかぁ。飯塚さん」
「いや、悪い意味じゃないんだよ。真桜ちゃんも、すっかりこのデイサービスでは中堅だもんねえ」
「
「萌咲ちゃんは重鎮だものね。敵軍で言ったら、軍隊長だね」
「萌咲さんが隊長ですかぁ? カッコイイですね~。私、萌咲さんみたいになりたいんですよねぇ」
明るい色に染めた髪を肩までに切り揃え、ふくよかなからだを揺らす真桜を見ていると、自分の青春を思い出す。
「でも、世の中にはいろいろな人がいるだろう? 萌咲ちゃんに恨みがある人なんているのだろうか」
「えー。萌咲さんを好いている人はたくさんいるけどぉ、嫌っている人なんていないんじゃないかなぁ。スタッフの中で萌咲さんに冷たいのはぁ、管理者の
「石桁さんねえ……。おれは会ったことがあったかな? なんだか覚えていないなあ」
飯塚が首を捻ると、真桜は事務室を指さした。
「みなさんの前には出てこないですけどぉ。ほら。事務所の一番奥に座っている人。あの人が石桁さん」
「へえ、気がつかなかったな。そもそも、事務室なんて、覗き込むことがないものね」
飯塚は視線を事務室に向けた。事務室はガラス張りになっている。手前に座っている女性二人は事務員だ。その奥に背広姿の男が一人座っていた。
——あれが石桁か。
飯塚は今回の犯人は「男性」だと睨んでいた。萌咲の制服が紛失しているならまだしも、物はそこにある。ただいじられた形跡があるだけ。ということは、何らかの理由——物欲ではなく、その服を纏っている萌咲への興味——だと思ったのだ。
そして、その「興味」は、きっと。悪意ではなく恋心ではないか。
——おれにだって心当たりはあるよ。
菱沼や小田切のような人種には理解できないことかも知れない。だが、飯塚はモテない男の気持ちがよく理解できる。自分に自信がない男はひっそりと心寄せるしかない。恋しい人の持ち物に触れたり、ほんの些細な接触の機会を得たりすることだけで、慰められるのだ。
——あの石桁という男を見てみようか。
施設で勤務する男性職員は少ない。飯塚は、男性職員たちを観察中なのだった。「挨拶してこようかな」と言って腰を上げた。
「えー。石桁さんに、挨拶ぅ? 怖いですよぅ。やめたほうがいいですよぅ」
真桜の言葉を振り切って、飯塚は事務室の扉を開けた。
「やあ、いつもお世話になっていますねえ。飯塚と申します。ここの責任者、石桁さんはいらっしゃいますか」
飯塚の登場に、事務員の女性は驚いた顔をしてから席を立とうとしたが、それよりも先に石桁が歩み寄ってきた。
「飯塚さん。管理者の石桁です。なにかございましたか?」
年の頃は、40代くらいだろうか。濃紺色のネクタイを締め、細身のスーツを纏っている。ぱっと見、物腰が柔らかく見える。飯塚は彼をつま先から頭のてっぺんまで眺めた。
「いやいや。なにかあるってわけじゃないんですよ。ただ。ずっと利用させてもらっているのにね。ちゃんとご挨拶をしていなかったなーって思ったんです」
「おやおや。それはわざわざ、ありがとうございます。こちらでご挨拶をしていなかったんです。大変申しわけありませんでした」
彼は迷いもなく、すぐに頭を下げた。飯塚はそれに釣られて、頭を下げた。
「このデイサービスはとってもいいところだ。職員の接遇もきちんとしていて、気持ちがいい。食事もおいしいし、施設の中はいつもきれいに整えられているし。責任者である石桁さんの教育のたまものですね」
「飯塚さん。それは、私一人の力ではないのです。飯塚さんのように、このデイサービスを愛してくれている利用者さんたちの声援に、スタッフみんなが元気づけられているのです。私をはじめ、職員全員が、みなさんとここでお会いできることを心待ちにしているのです。みなさんが、こうして。ここに足を運んでくださる。それだけで私たちは嬉しいのです」
きらりと光る笑顔に、飯塚はつい引き込まれそうになった。それから、「いやあ。本当にありがとう。本当にありがとう」と何度も頭を下げてから事務室を出た。
——この男……。この業界ではできる男なんだろうな。
つい石桁に意識を取られていたらしい。飯塚は、そこにいた介護員の男性にぶつかった。若い頃だったら耐えられるバランスの崩れ。高齢になると、踏み留まる力が弱くなるおかげで、飯塚はあっという間に尻もちをついた。
「ああ、飯塚さん。大丈夫ですか。すみませんでした。ぼうっとしていたみたいで……」
「あいたたたた……。だ、大丈夫だよ。吉成くん……」
介護員の若い男——吉成は、飯塚に駆け寄った。事務室から事務員や石桁も駆けつける。
「飯塚さん!?」
「大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫だ。なんとも……」
「なんともない」と言いかけた飯塚だが、吉成は石桁に激しく叱責された。
「どこを見ている? お客様に怪我をさせるようなことをするとは。一体、どういうつもりだ」
吉成は「……すみませんでした」と肩を竦めた。彼の指先はぶるぶると震えていた。飯塚はなんだか気の毒になる。しかし石桁は更に吉成を怒鳴りつけた。
「すみません、では済まないのだ。飯塚さんに、なにかあったらどうするつもりだ!?」
「石桁さん!」
あまりの剣幕に、事務員たちが間に入る。飯塚も「石桁さん!」とそれを止めた。
「おれは大丈夫ですから。石桁さん。そんなに怒らないで」
しかし石桁は怒りが収まらない様子だ。そのうち、自分自身を落ち着かせたのか、大きく深呼吸をしてから、飯塚に頭を下げた。
「飯塚さん。大変ご迷惑をおかけいたしました。そして見苦しいところをお見せいたしました。しかしこれは大事なことなのです。曖昧にして終わらせるわけにはいかないのです」
「いや。いやいや。わかりました」
騒ぎで駆けつけていた真桜が「あのぉ」と声を上げた。
「飯塚さん、お連れしてもよろしいでしょうか。看護師さんに診てもらったほうが……」
「そうだ。そうだ。まずは飯塚さんのおからだが心配だ。大至急、看護師に診てもらうように。それから、飯塚さんのご家族にご連絡差しあげて」
石桁の言葉に素直に従ったほうがいい。飯塚は真桜に手を引かれてその場を離れた。吉成は、石桁に指示されて事務所に入っていく。これから、かなり絞られるのだろうな、と飯塚は思った。
「介護の世界は厳しいんだねえ」
「危ないことをしたのは、吉成くんですよぉ。怒られても当然ですから」
いつもはぽわんとしている真桜は、珍しく険しい表情をした。
「吉成くんって、ぼーっとしていて、失敗ばっかりなんですから。萌咲さんはかばうけど、もうかばい切れるものじゃないんです。そろそろ辞めてもらったほうがいいんじゃないかって、みんなで言っているくらいですから」
「みんな厳しいんだね」
「それはそうですよ。この業界って向いていない人は向いていませんから。——それより、腰大丈夫ですかぁ? お風呂の時間だしぃ。看護師に全身、診てもらいましょうね」
——年寄りになるって。それはそれで役得なんだよな。
飯塚は口元を緩める。「年寄り」だということだけで、ここでは男性として警戒されることが少ない。若い女性に背中を流してもらったり、頭を洗ってもらったり。仕舞には、服を着せてもらって、手を握ってマッサージをしてもらうこともある。
「極楽だよねえ。ここは」
「なんですって?」
「なんでもない。なんでもないよ」
飯塚は柔らかい真桜の手を握りながら、足取りも軽く浴室に向かった。
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