第33話 萌咲、失恋する


「放っておいて! 聡って本当にデリカシーがないんだから。だから、彼女もできないんだよ? どうするつもりなの」


 萌咲は苛立ちを振り払うように、大きな声を上げた。聡は一瞬、驚いたように目を見開いた。なにか言い返されるだろう。そう思い、身構えていると、聡は意外にも小さな低い声で言った。


「お前に言われたくないよ」


 聡は拳をぎゅっと握り締めると、萌咲をまっすぐに見返してきた。いつもの聡とは違う。萌咲はたじろいで、からだを後ろに引いた。しかし聡は怯まない。萌咲をきっと見据えたまま、はっきりとした口調で言った。


「おれは——。おれがずっと一人でいるのは……。その理由は、お前が好きだからだ……!」


「……え!?」


 萌咲は思わずマルコを落としそうになる。マルコは慌てて萌咲の服に爪を立てた。言葉に窮し、視線を彷徨わせていると、聡は「もういいや」と言って首を横に振った。話は終わりだ、とばかりに踵を返した彼。彼は萌咲のことを見もしないで言った。


「これ以上、菱沼さんには近づくな。危険な目に遭うぞ」


「なに、言っているの? この前の男の人? あれ、誰? ねえ、聡。あなた、なに危ないことに首突っ込んでいるの? 聡!」


「おれのことなんてどうでもいいんだろう。——ともかく、萌咲はもう関わるな。いいな。菱沼さんの家にはいくなよ。萌咲のことを思って言っているんだ。——じゃあ」


 聡はそれっきり、自分の愛車に乗り込むと、そのまま走り去った。萌咲はよほどマルコを抱く手に力が入っていたのだろう。マルコが「にゃおん」と低い声で鳴いた。


「変な聡。どうしたんだろう……。ねえ、マルコ」


 マルコはただ黙って萌咲を見上げていた。すると鞄の中に入っているスマートフォンが鳴った。相手は菱沼だった。


「もしもし、萌咲です!」


「菱沼です」


 萌咲は慌てて腕時計に視線を落とした。約束の時間を過ぎようとしているところだった。


「ちょっと色々あって、遅れちゃって。今から家を出るところでした。すみませんでした——」


 謝罪の言葉を述べようとした時。菱沼の静かな声がスマートフォン越しに響いてくる。


「すまないね。萌咲ちゃん。今日はなしにしてもらいたいんだ。ちょっと体調が思わしくないんだ。しばらくはお料理、お休みにしてもらおうかなと思って」


「あ、あの。体調が思わしくないって、どういうことなんでしょうか。大丈夫なんですか? 病院は?」


「病院に行くほどでもないんだ。年なんだろうね。大丈夫だよ。ゆっくりすれば元気になるんじゃないかなって思っているよ」


「ゆっくりって。ならなおさら、私、菱沼さんの家にお邪魔して——」


「萌咲ちゃん。大丈夫だよ。心配ないんだ」


 萌咲は、はったとした。


 ——そうか。体調不良なんて、お断りの口実……なのね?


「菱沼さん。お休みって、いつまでですか?」


「そう言われても……僕にも見当もつかなくて。また、お願いしたいときには、声をかけさせてもらいます。勝手なお願いで申し訳ないね」


 目の前がまるで闇に閉ざされたみたいになった。心臓がドキドキと脈打つ。なんだか視界がぼやけて、目頭が熱くなった。


「もしかして……私の料理。おいしくないんですね。ご迷惑でしたか。すみません。あの、私。そういうつもりじゃなくて……」


 萌咲は動揺していた。菱沼に断られるなんて、思ってもみなかったからだ。


「萌咲ちゃん。こちらこそ、そういうつもりじゃないんだよ。萌咲ちゃんのポテトサラダ。とってもおいしかった。僕は死ぬ前にあんな美味しいポテトサラダが食べられて、本当に幸せだなあって思ったんだよ」


「死ぬ前なんて。菱沼さん! そんな不吉なことをおっしゃらないでくださいよ」


「萌咲ちゃん。人はみんないずれ死ぬんだ。それが早いか遅いかの違いだけだよ。僕たちは平和ボケしているのかも知れないね。昔は、いつでも死が隣り合わせだった。だから、人はみな、精一杯今日という日を生き抜いてきたんだ。僕たちは明日があるって当然のように思っている。それはいいことなのか、悪いことなのか……」


 菱沼は独り言のようにつぶやくと、声色を変えた。


「ともかく。今日はお休みしてください。すまないね。体調が回復したら、こちらから連絡します。それでは。今までありがとう」


 通話は一方的に切れた。萌咲の瞳から涙が零れ落ちた。聡に「好きだ」と告白されたことよりも、菱沼に拒絶されてしまったことのほうが衝撃的だったのだ。


 萌咲はマルコをぎゅっと抱きしめてから、大きくため息を吐いた。


「マルコ~……。青砥あおと萌咲、失恋です……」


 マルコは「にゃおん」と鳴いて萌咲を見上げていた。


***


 黒電話の受話器を置いた菱沼は、軽くため息を吐いた。


 ——これでいいんだ。これで。


 小田切が襲撃された時、懇意にしている女性が巻き込まれたと聞いた。萌咲をこれ以上巻き込みたくない、と菱沼は考えた。


 ——次は僕かもしれないからね。


 菱沼はソファに腰を下ろすと小さくかけていたラジオを消した。辺りは一瞬で静寂に包まれる。


斑目まだらめ先生と鍵か——」


 菱沼は斑目との面識はない。だが何度か、小林の口から噂を聞いたことがあった。彼が斑目に全幅の信頼を置いていた様は、傍から見ていてもよく理解できた。


 ——不老不死研究の関係者は、あの空爆で全員戦死した。それなのに一体、どうやってこの研究を斑目先生に託すことができたのだろうか? 


 もし斑目に託されていたとしたら、あのKノートを聡が見つけるはずがない。


 ——斑目は終戦の翌年に病死したと言っていたが……。もし斑目がこの研究を引き継いだとしたら。彼は自分の死と伴に葬り去ったということか?


「そして、鍵だ……。鍵とはなんだ?」


 菱沼は、そばにあった杖を両手で握りしめる。菱沼のからだはあっという間に若かりし頃に変化した。両手の中に残る九九式小銃。それをじっくりと眺めてみる。鍵を入れ込むような場所は見つけられなかった。


「鍵とは、物理的なものではないのだろうか。小銃の能力を解放するための鍵とは、いったいなんだ?」


 小銃を観察していると、縁側から物音がする。はったとして視線を遣ると、そこには見ず知らずの男が立っていた。


 木製の木枠にはめ込まれているガラス窓越しに見える男は、ブロンズの髪色と碧眼。日本国籍の人間ではないということが一目で理解できた。菱沼は怪訝に思いながら、男を観察していたが、その手にM1ガーランドが握られていることに気がついて、弾かれたように縁側の掃き出し窓を開いた。


「キミは——……」


「ミスター菱沼。、お会いできて光栄ですね」


 男は愛想のいい笑みを浮かべて、菱沼を見返していた。




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